口裂け女の恋
頬が疼くような感覚がして、思わず私はマスクの位置を直した。
時は2020年。
ありがたいことに、今は大きなマスクをつけていても奇異な目で見られることはない。周りを見回しても、私のような人しかいない。
そう、今は一世一代のチャンスだ。
人通りのそこそこある駅前。ざわざわとした喧騒。早鐘の様な鼓動をかき消すからか、今日ばかりは落ち着く。待ち合わせ時間よりも、早く来すぎたかもしれない。さっきからのろのろと歩く人達が、次々と視界から消えてゆく。
「あの、もしかして素子さん?」
覗き込むように背後から現れたのは、プロフィール写真通りの男。
「大林 潤平さん?」
男は頷いた。
「お待たせしてすみません。この辺、詳しくなくて。」
潤平は照れくさそうに頬を掻く。私は笑顔で答えた。
潤平とは、いわゆるマッチングアプリで知り合った。いつも笑っているかのように目が細く、スポーツマン体型の男。別に好みのタイプというわけではないが、やりとりが続いたのは彼だけだった。
私は、妙な作用のせいでいつまでも若々しいまま今日まで生きてきたけれど、夢は叶っていない。口が裂ける前の夢。いつか、愛する人と結婚したいという夢。そんな夢を見ていた。
「そうだ、映画予約してくれたんですよね。そろそろ行かないと。
いやぁ、どんな映画なんだろう。楽しみです。」
潤平はそう言って左手首を揉んだ。右手首の腕時計は1:23を指している。
「一応、潤平さんの好みも考慮して決めたので……楽しんでもらえると思いますよ。」
私はそう言って微笑んだ。
そのせいで少し動いたマスクを、慌ててずらした。
いわゆる大衆劇場ではなく、老夫婦が経営している映画館に予約をとっている。想像したくもないが、やはり正体がバレてしまうのは困る。映画館なら薄暗いし、上映中に何か食べてしまえば、その後食事に行かずに解散できるだろう。
「おおっ、これ、見たかったやつですよ!
ありがとうございます!
あっ、そうだ、何か食べますか?」
潤平はいかにも若々しくはしゃいでいる。つられて私も笑ってしまいそうだ。
それにしても、ポップコーンやポテトフライではなく、おにぎりといったものがこの映画館の軽食だが、潤平は驚いていない。
「もしかして、前にもここに来たことが?」
「ええ、まぁ。
前の勤務先から近かったので、よく仕事帰りに見に来てたんですよ。」
潤平は照れたように笑う。今は医療事務をしているが、前は一般企業の営業職だったそうだ。確かにこの辺りはオフィスが多い。もしかしたら、意識していなかっただけで、潤平とすれ違ったことくらいはあるのかもしれない。
とりあえず第一印象を良くしようと思って、潤平の好みに合わせて映画を選んだから、あまりストーリーに興味は湧かない。
わたしは高菜おにぎりを音を立てないように食べながら、スクリーンを見ていた。
横目で見ると、潤平は食い入るように画面を見つめている。手の中で鮭おにぎりが潰れそうだ。
そんなに面白かっただろうか。私はスクリーンに視線を戻した。
しばらくすると、横から「んふっ」という声が聞こえてきた。どうやらおにぎりを一部落としてしまったらしい。
見ると、床には落とさず手で受け止めている。
さすが元スポーツマン、といったところか。
「ナイスキャッチ。」
私が囁くと、潤平はふふっ、と照れ笑いを浮かべて私を見た。
まずい、と思った刹那、劇場内が明るくなる。
映画の中でドンパチが始まったらしい。
潤平の眉が一旦寄せられて、また戻った。
音が消える。
ストーリーを知らないから銃撃戦が終わったのか、私がこんなに絶望しているせいなのか、分からなかった。
「うーん、やっぱりあの俳優さんが出ている映画にハズレはありませんねー。
ほら、あの……吉、なんとかさん。」
潤平の態度に違いはない。おかしいほどに自然体だ。
気づいていないはずはない、と思うのだけど。
「よし、じゃあ、そろそろ何か食べます?」
潤平は鼻をこする。
私は慌てて言った。
「いえ、さっき食べたので……。」
「ああ、そうでした!
それに、そろそろお仕事なんですよね?」
私は頷いた。
映画を見終わったらすぐに帰れるよう、口実にしていたのだ。実際は、今日は休みだが。
潤平は俯いている私をよそに、ポケットをごそごそとまさぐっている。
「じゃあ、仕事終わりにでも、美味しいもの食べて下さい!
今日は楽しかったです。また会える日があったら、連絡して下さい!」
手には、くしゃくしゃのお食事券。
思わず、吹き出してしまった。
普通、初めて会った女性にお食事券なんて渡すのだろうか?
私とは対照的に、潤平には自分を良く見せようという気持ちが全然ないらしい。
「じゃあ、今度会うときに、大事な話をしてもいいですか?」
「え?今日じゃダメなんですか?」
「こ、心の準備が……。」
「なるほど!じゃあ、心の準備ができたら連絡して下さい!」
潤平は爽やかな笑顔で言う。
私も、釣られて笑ってしまった。




