クマの手神父の恋
昔、ドイツのある村に、クマの手をした神父がいた。名前はフォッガスといい、由来は分からない。
彼は教会の懺悔室の中にいつもいて、村人は彼の顔はおろか手も見たことがなかった。それでも彼の手はクマの手なのだ。
懺悔室の中でロウソクが揺れている。ちろちろと動く炎を見ていたらば、ギィーッと木の軋む音がした。床板を踏みしめる音が聞こえる。真っ直ぐこちらに向かってきたが、やがて同じ地点でずっとギシギシいい始めた。クマの手神父は一つ咳きを打って、入るように言った。
駅の受付のように、二人の間は木枠と金網で遮られている。この黒い金網というものがたいへん細かいので、お互いの顔を見ることは出来ない。もっとも、暗さが手伝ってこんなものが無くても手元しか見えないのだが。
「それで、」
クマの手神父は言う。
「何を懺悔しに来たのですか」
息を吸う音がした。クマの手神父は目の下を掻く。
「ゲルダ マイヤーと申します。
私は、恋をしてしまったことを懺悔しに参りました。」
「なるほど」
クマの手神父は手を組み、鼻を膨らませた。
ゲルダはまたしばらく何も言わなかったが、神父が椅子に落ちてきたホコリを払う音を聞くと、また口を開いた。
「私は、将来はこの教会でお勤めしようと思っておりました。
しかし、このような雑念があっては勤まりません。
では、これは罪ではないかと思ったのです。」
クマの手神父はずっとゲルダに横顔を向けていたが、ゲルダの方を向くことにした。やはり、ほとんど何も見えない。金網が時々赤く光る。それだけの部屋だ。
「何も案ずることはないと思いますよ」
ゲルダが身じろいだ音がした。
「罪人でも聖職者になれます」
クマの手神父はそう言い、組んでいる手の上下を組み替えた。指をぱらぱらと動かす。ゲルダからの音は無く、続きを待っている風だった。
「私のように、暗い部屋に閉じこもるといい。
ロウソクの灯り以外何も見えないのだ、君の罪というものも帳消しだ」
ゲルダの髪が擦れる音がする。左から右に流れていった音。神父は椅子に座り直した。
「神父様も、罪人なのですか」
ゲルダの声は先程より大きい。神父は鼻筋をぽりぽりと書いて、呻くような溜息を吐いた。
「人というものは皆罪人です」
神父はもう一度手を組んだ。
「しかしながら、罪悪の意識があるものよりないものの方が生きていて幸せそうだ。
だから人は罪を忘れてしまう」
神父は、これが聖書を踏まえた説教なのか個人的な見解なのか分からなくなってきた。しかし、ゲルダの側からの反応はない。
仕方なく神父は咳払いをした。ゲルダが鼻をすすった音がする。
「そうかもしれません。
ただ……。神父様は、どうしてずっと懺悔室にいらっしゃるのでしょう」
「あなたはそれを聞きに来たのですか」
ゲルダの密やかな声に対し、神父は間髪入れずに言う。
まずいことを。神父は失礼、と言って壁に背を預けた。
「いえ、ごめんなさい。
こんなことを申し上げるつもりはなかったのですが……。
この村で、あなたのことを知るのはもう私とこの教会の人しかいないのです。」
ゲルダがそう言うと、神父は壁に手をかけて立ち上がりかけた。
「なんですって」
慌てて椅子に座り直す。
「それはまずい」
神父の爪と衣装がカリカリと壁を引っ掻いた。
鼻の奥からピーピーと音がする。
「教会の者は、私のことを知らないのです」
神父は頭を抱えながら言った。
「教会の人が、ですか?」
ゲルダの声は弾んでいる。
「知らないのです」
神父は繰り返した。先程よりも固い声で。
「私をこの部屋に入れた者は、とっくに寿命で神のもとへ帰っているでしょう。
あの日以来、教会のものに会っていません。」
私は汚点ですから、教会も隠したいのでしょうね、と神父は付け足した。
「だって君」
お互い暫く黙ってから、神父が口を開いた。
「ここは牢獄ですよ。私がここから出るためのドアなんてないんだ」
ゲルダは溜息を吐いた。ひどく疲れているらしかった。
「暗くて見えないんでしょう。
飲まず食わずなわけがないですもの。」
いや、
いや。神父は視線と手をあっちこっちにやる。ロウソクの火が奇妙な影を壁に投げかけている。
「そんなのもう調べたさ、でもないんだ。
気がつけばここに皿が……。
まあ、いい。
私がここにいるのはね、あなたと同じなんです。恋をしてしまった。」
神父は額に手をやった。
「私の手は妙なのです。ちょっと人と違う。
原因は分かりませんが、こういったものは子孫に受け継がれるが習わし。
私は一人で死んでいかなければならないのです」
神父の手は、確かにクマの手だった。しかし、この懺悔室に来てすぐの頃、彼はその毛を全てロウソクで焼いた。あとに残ったのは、黒光りする鋭い爪と、火傷まみれの5本指。
毛根ごと焼き切れたのか、未だ毛は生えてはこない。
「そう、残念ですね。
私が恋をしたのはあなたなのに」
ゲルダの静かな声がする。神父が言葉を処理するのに数秒かかったが、その真意を理解すると、神父は両手をカウンターに叩きつけた。
「冗談を。私を見たこともないくせに!」
ゲルダは何も言わない。何故だか、意志の強そうな二重眼が見えた気がする。
「見たことはありません。
しかし……。ユリアのことを覚えていますか」
神父は手を擦り合わせた。
「どこでその名を」
「私の祖母です」
二人は噛みつき合うように言う。神父は自分の腿を見た。
「祖母の話を聞いているうちに、あなたのことが好きになったのです。
祖母はあなたに謝りたい、とずっと言っていました。
それにね、フォッガスさん。外の世界はずいぶん時間が経って、もうあなたのような手の人も愛されているんですよ。」
フォッガスは火傷まみれの手を見た。ユリアは昔愛した女の名だ。忘れるはずがない。
「嘘だ」
「懺悔室で嘘をつくほど罪深くありません。」
ゲルダは耳の後ろをかいた。フォッガスはまだきょろきょろしている。
「それは嬉しいね。だが、私は出られないんだ。
君とこうして話すのが関の山だ」
ゲルダは小さく笑い、
「興味を持っていただけました?」
と聞く。
フォッガスはうんと言った。
「それなら大丈夫ですよ」
ゲルダは静かに閂を外した。
「ドアならここにあるのですから。」
ドアノブは、外側にだけあったのだ。カウンターの間の遮蔽物が取り除かれ、ロウソクに照らされて初めて二人はお互いの顔を見た。
時の止まっていた二人はただの若いドイツ人だった。フォッガスはカウンターを乗り越えると、ゲルダの手の甲にキスをした。




