ワイバーンの恋-後-
ごとっ、と外から大きな力が加わったのを感じた。
誰かが、僕を拾ったみたいだ。
じんわりと、温かくなっていく。
僕は生まれた時、母さんに気づいてもらえなかった。
空を飛んでいるときに産み落とされて、それっきりだ。
いつか迎えに来ると思ってた。
でも、羽根の音はしない。
いつまでも、いつまでも。
「ガチョウさんの卵かな?」
ドラゴンじゃない?
母さんは、ドラゴンではない何かの近くに住んでいた。
お腹の中にいた頃、こんな言葉を聞いていた。
「あれは人間だよ。」
母さんの優しそうな声。
未だに意味は分からない。
でも、敵じゃなさそうだ。
僕は殻に包まれたままゆらり揺れている。
どこかに連れていかれるらしい。
運が良ければ、母さんの元へ返してもらえる。
僕はじっと願った。
僕をくるんでいる温かい手が、母に変わることを。
「ママー、ただいま!」
殻の外から、大きな声がした。
それから、小さな足音。
この声の主の仲間だろうか。
「今日も、たくさん取れたわね。」
優しそうな声だ。
殻の中で目を瞑る。
まだ、響いている。
「これは?」
綺麗な調子が、訝るように変わった。
どうやら、ドラゴンではないらしい。
じゃあ、何がこんなに温かい声を出せるのだろう?
「たまご!あっためて、かうんだー。」
高く明るい声がした。
僕を拾ってくれた方だ。
細く、息が吐かれる音がする。
呼吸をする生き物。
僕には検討もつかない。
これから見られる世界に思いを馳せていると、柔らかいところにそっと下ろされた。
悪いものではないらしい。
ずっと固い地面の上で、辟易していたのだ。
本当はふかふかの藁か何かの上に横たわるはずだったのに。
おっと……。繰り言はこれくらいにしておこう。
気まぐれに、殻が温められる。
本当は僕はいつでも生まれてこれるのだけど、周りの安全を確認してからじゃないとダメだ。
僕はドラゴンなんだと偉そうに言っても、生まれたばかりじゃ何も出来ない。
声が温かくて優しそうだからと言って、安全とは限らない。
明るく、大きな声は時々いなくなる。
そんな時は、いつも優しげな声が近づいてくる。
そして、温めてくれた。
その声さえもいなくなることもある。
本当の母親ではないのだから仕方ない。
でも、また静かなところに打ち捨てられるかもしれない、と、心配にもなる。
僕は、これからどうなるんだろうか。
「早く生まれてきてね。
ミラーが待ってるわ。」
優しげな声が言う。
時折、そう呟くように言うんだ。
僕には、その意味を理解することができない。
だけど、敵じゃないのかな、と思わせるには十分だった。
殻の内側から、何度も口のトゲを叩きつける。
ドラゴンの殻は外敵から身を守るために厚く、固い。
「ママー!たまごがうごいてる!」
楽しそうな声。
「じゃあ、そろそろ生まれるのね。」
柔らかな声。
早く、会いたいな。
これをぶち破れば、この声と巡り会える。
割れろ。割れろ、割れろ!
それから何も起きない状況が続いた。
殻の中にも外にも変化はない。
それでも諦めず殻に挑み続けていると、ようやく光が見えた。
ヒビが入ったんだ!
「キャー!」
甲高い声。
な、なんだ!?
殻が宙に浮く感覚がする。
や、やっぱり、敵だったのか……。
足元が揺らいでいく。
頭が殻に叩きつけられる。
どこかに運ばれているのか?
「ミラー、今ガチョウさんは頑張ってるところだから、静かに、見守ってあげましょう。
手を振り回したりもダメよ。」
温かい声がして、天変地異は止んだ。
僕はやっと落ち着いて、殻に食らいつく。
まだ不安だ。
殻を破った瞬間、また揺れたら僕は無事ではすまない。
とはいえ、先程不本意ながら頭を強かに殻に打ち付けたおかげで、随分殻はダメージを負ったらしい。
小さな穴から崩れ落ちるように、割れていく。
「おー……。」
明るい方の声だ。
生き物は二匹。
どっちも、ドラゴンではないらしい。
威嚇のために、僕は全身の力を振り絞って鳴いた。
一匹は目をキラキラと輝かせ、もう一方は眉を寄せていた。
食料をくれたのは、いつも優しげな声の方だった。
温かい寝床をくれたのは、明るい声の方だった。
どちらも、僕に危害を加える気はないらしい。
優しげな声は、僕にいろいろなことを教えてくれた。
まず、彼女たちは人間であるということ。
それから、言葉をいくつか教えてもらった。
どうやら、明るい方はミラーといい、優しげな方はアネモネというらしい。
アネモネはいつもおそるおそる僕に近づく。
しかし、それは僕を恐れている、というよりも、扱いに困っているようで、僕を捨てたり攻撃したりしようとはしない。
一方ミラーは恐れを知らなさすぎて僕の方が遠慮する。
未発達の鱗が剥がれてしまったこともあるし、反対に口のトゲでミラーを引っ掻いてしまったこともある。
いつも近くでミラーを見守っているアネモネは、そんな時いつもミラーを叱るのだった。
僕に悪気がないのを分かっているのか、どうなんだろうか。
僕は、そんな時いつも少し嬉しくなってしまう。
対等に扱ってもらえるのが、嬉しくて。
ある日、アネモネは遠くに行ってしまった。
仕事だからと言って出ていくことはたまにあったけど、今回は窓から覗いても、彼女はいない。
他の人間に見つかってはいけない、ときつく言われている僕は、いつもこうやってアネモネを見ている。
ミラーは散歩に僕を連れていこうとするけど、アネモネが阻止してくれている。
僕はまだ上手く喋れないから、本当に助かる。
でも、そんなアネモネはいない。
四本足の化け物と一緒にどこかに行ってしまった。
飛んで、会いに行きたいな。
母さんみたいに、ずっと会えなかったらどうしよう。
「ただいまー!あれ?ママは?」
ミラーも知らないらしい。
僕は首を振った。
いよいよ、不安になってきた。
食べられたのかな。
「ガァ……アェ……。」
喉の奥から空気を吐き出しても、思慮を得ない。
もっと、話したい。
もっと、知りたい。
「どうしたの?」
ミラーの問いに、僕は答えられなかった。
「あっ、ママおかえり!」
「牧師様のところに行きましょう!」
玄関のドアが開いたと思ったら、誰もいなくなった。
僕は……やっぱり、誰にも拾われないのかな。
アネモネは、いなくなっちゃうのかな。
足音が遠ざかっていく。
「ガァ……。」
僕は両腕を折り畳んで、その上に頭を乗せた。
「イヴァン、ただいま!」
閉じた瞼が、少しだけ赤くなる。
目を開けると、夕日を背に、アネモネとミラーが立っている。
僕は駆け寄ろうとしたけど、テーブルをなぎ倒すことしかできなかった。
「もう、イヴァンったら!」
ミラーはそう言いながらテーブルを直そうとする。
でも、小さくてできない。
アネモネと僕の尻尾で、なんとか起こした。
「イヴァンはね、あなたの名前よ。
私はアネモネ。この子はミラー。」
あなたは、イヴァン。
アネモネはそう言った。
僕はその時、もう、高いところから落とされることはないんだ、と誰かに囁かれたような気がした。
数年間。
僕は人の言葉を話せるように。
アネモネと同じになれるように、たくさん勉強した。
ミラーとは、いつの間にか姉弟みたいになっている。
アネモネは僕たちのことをいつもにこにこと見守っている。
アネモネは、僕のことを愛してくれている。
ミラーと平等に。
それでもいっか、なんて思うには、まだ僕は幼いのだ。
欲張ってしまいそうになる。
「ミラー、ここの計算は違うよ。
繰り下がるとまるでダメなんだから……。」
「なによ、私よりできるからって!
12-9は1でしょ!」
「3だよ……。」
今も、こうやって、アネモネからの視線がほしくて、下心でミラーに勉強を教えている。
二人が寝ている間に、教科書を盗み読んで。
専門用語は発音から練習して。
アネモネは笑う。
「やっぱり、イヴァンは長生きだろうけど、それだけ頭が良ければ大丈夫そうねぇ。」
シチューをかき混ぜながら。
ミラーには分からないように、頭のいい僕だけに分かるように、アネモネは確かにこう言った。
「私が死んでも、大丈夫ね。」
人間の寿命は、短いんだって。
どこかで読んだ。
「いや、僕は大好きな人が死んだら、死ぬよ。
きっと残される苦しみに耐えられないから。」
アネモネは目を見開いた。
僕は、彼女からしたら可愛い子供かもしれない。
だから、従順に首を縦に振ると思ったんだろう。
でも、そんなことないよ。
僕は、アネモネが死んだら……。
「まぁたイヴァンがムズカシーこと言ってるー!」
ミラーはそう言って笑う。
ちゃんと、ミラーにバレないように言えたみたい。
どう、アネモネ。
僕のこと、見直してくれた?
「ふふ、イヴァン、恋してるのね。」
「茶化さないでよ、もう……。」
僕はそう言うとぷいっとそっぽを向いた。
きっと分かっていない。
アネモネはウィンクして、ミラーを見たから。
違うんだ。
君に言ったのにな。
ミラーは小学校に通うようになって、アネモネが牧場に行ってしまうと、僕は1人になってしまうことが増えた。
ミラーの屈託のない笑顔や声は大好きだし、その分いなくなると寂しくもなる。
そんなある日、コンコンとノックが聞こえた。
窓を見ると、アネモネは牧場のずっと奥の方にいて、来訪者には気づいていないらしい。
確かに、この時間に誰かが来るのは初めてだ。
近所の人はアネモネが牧場に出る時間を知っているから、その時間に合わせてくれるのだ。
好奇心に負けた僕はドアを少しだけ開けて、誰が来たのか確認することにした。
すると、無理やりドアをこじ開けられた。
「やっぱりか。」
そこには、見たこともない人間が立っている。
「善良な民かと思えば、こんなものを匿っているとはな……。」
人間は言う。
アネモネの友達だろうか?
「住みかに帰れッ!悪辣な化け物め!」
人間はそう言うと、僕に熱い水をかけた。
「グァァア……。」
水が熱いはずがない。
お湯ならば湯気が出るはずだ。
硫酸か何かだろうか。
「悪の眷属に、聖水は辛かろうなぁ。」
人間はそう言う。
敵だったのか。
油断してた。
他の人に、見つかるな。
これは、こういうことだったんだ。
「ん?いや……?」
人間はたじろいでいる。
僕は何もしてないのに。
「鱗が、白くなっている……。
お前、悪ではないのか?」
言われてみれば、溶けたりしていない。
むしろ、水がかかったところは艶々と輝いていて、前より綺麗になったくらいだ。
「アネモネさんは……ミラーちゃんは?」
「無事だよ。誰?」
人間は後ずさり、すごすごと去っていった。
「お前が悪ならば、あの水はお前を跡形も無く溶かすのだ。
だが、そんなことはない。
お前は清められた。
それは……お前が善である証明だ。
少なくとも……我ら人間には。」
捨てゼリフを吐いて、どこかへ行った。
アネモネには気づかれなかったらしい。
よかった。
余計な心配、かけたくなかったんだ。
僕はつやつやしたところに泥を被せて、昼寝を始めた。
夢を見た。
アネモネと、ミラーと僕。
食卓を囲んでいる。
そして、知らない男がいる。
親しげに話しかけてくる。
誰なんだろう。
僕は夢の中で、答えを探していた。
それから、じんわりと、理解していくのだった。
彼は、アネモネの夫だ。
どうして、今までこのことを考えてこなかったんだろう。
ミラーには父がいる。
どこかに。絶対。
目が覚めると、アネモネは野菜を洗っている。
僕とアネモネ以外、誰もいない。
いつもはわくわくするこの瞬間も、今は静かすぎて余計な考え事が浮かぶだけだ。
僕は、多くを望んじゃいけない。
「旦那さんは、どうしたの。」
アネモネの手が止まる。
水も止まる。
雫は落ちない。
どうして、聞いてしまったのだろう。
いなかったらどうするの。
好きだ、って言ってもらえると思ってるの。
そんなわけ、ないじゃん。
せいぜい、僕がもらえる最上級は、
「あなたがいてくれて良かった。」
きっとこれ。
ハァ……。
アネモネが息を吸う音がした。
「死んだわ。ミラーが生まれる少し前にね。
落石事故で……。」
僕ははそこまで聞くと、堪らなくなってしまった。
想定外だ。
もっと、冷静でいられるつもりだった。
「まだ、好きなの?」
口が、勝手に動いてしまう。
心は追い付いていない。
規定以上のスピードで振り回されて、スクラップになりそうになってる。
アネモネは黙って頷いた。
目が、熱い。
変な水を浴びた時よりずっと。
ダメだよ。
ここで泣いたら、変なやつだと思われちゃう。
アネモネは、僕がミラーを好きだと思ってる。
それでいいや、なんて思ってた。
諦めてた。
どうせ、好きになってはもらえない。
でも、それは気のせいだったみたいだ。
後ろ足で目をかいて、誤魔化した涙は、確かに、熱い。
鱗を切り裂くように、流れていく。
「時々、考えるんだ。
愛する人が死んでも、愛し続けられるのかって。」
僕は努めて上の方を見ながら言った。
アネモネは、答えを知っていた。
「僕は生まれた時から人間と一緒だから。
大好きなものは、みんな僕より先にいなくなっちゃうから。
でもね、一緒なんだよ。
誰かを好きになったり、切なくなったりするのは。」
僕はそう言って、目を閉じた。
声を震わせずに言えるのは、ここまでみたいだ。
沈黙が流れる。
僕は、愛せなくなるのが怖い。
アネモネがいなくなったとき。
僕は変わらずアネモネを愛せるだろうか。
僕が大好きな、アネモネのような愛し方で。
胸を張って、愛してる、って言えるかな。
言えないと、何だか申し訳ないよ。
僕は長い長い生涯の中で、いつか忘れてしまうかもしれない。
顔も声も。
だけど、ずっと愛し続けられれば、記憶の中だけでも、ずっと一緒いられる気がして。
そんな奇跡を、どこか信じてるんだ。
ミラーの就職を境に、アネモネは目に見えて弱っていった。
今までミラーをほぼ1人で育ててきた反動かもしれない。
責任感の糸がプツンと切れて、立っていられなくなったんだろう。
僕は、あまりアネモネと言葉を交わさないようになった。
それだけでも体調を悪化させてしまいそうな気がして。
それに、弱っているアネモネの声は、聞きたくない。
材料をドロドロに煮溶かしたシチューをアネモネに渡すと、アネモネはにっこり笑って、昔みたいなはっきりした声で言った。
「ありがとう。あなたがいてくれて良かったわ。」
こんな、こんな時に。
ずっと欲しかった言葉がもらえるとは思わなかった。
だって、最後かもしれないぜ。
このシチューが。
今更、遅いよ。
今僕が好きだよって言ったって、君はまともに答えられない。
一緒にいられるのも、ほんの一瞬だ。
「いいんだよ、気にしないで。」
そう、気にしないで。
いつも通りにしよう。
忘れよう。
僕は俯いた。
気に病まなくていいから、長生きしてね。
ある昼下がり。
朝からアネモネは体調が優れなくて、一日中ベッドで丸くなっている。
こういう日は週に一度くらいある。
うたた寝の邪魔をしては悪いので、僕はベッドの下で待機していた。
すると突如、頭上から苦しげなアネモネの声が降ってきた。
「大丈夫!?」
僕は叫んだ。
でももう、アネモネは頷かない。
あ、置いていかれるんだ。
僕は本能的に悟った。
「嫌だ!アネモネ!行かないで!」
アネモネは静かに目を閉じ、微笑んだ。
僕の声に反応すらしない。
これがおしまいか。
僕はだらりと体の力を抜き、アネモネの顔を見守った。
赤みが消えていく。
息の音もしない。
僕はため息を吐くと、置き手紙を残した。
もちろんペンは握れないので、本や教科書を破って、継ぎ接ぎで。
「かエるばしよをミつけたのて"、
さヨうなら。」
僕は生まれて初めて空を飛んだ。
空は広くて、僕を抱き締めてくれるように見えた。
それなら、と僕は飛び込む。
でも、温かい腕も声もどこにもなくて、僕はいつまでもいつまでも高いところに行くみたい。
少しずつ、周りの音が、酸素が消えていく。
体の内側から膨らんでいく感覚がする。
「アネモネ……。僕、間に合わなかったよ。」
「お母さん、見て、花火だよ!」
「えっ、そんなはず……ほんとね。
何かが弾けて……キラキラしてる。
昼間なのに……変ねぇ……。」




