影法師の恋
孤児院を抜け出して来たはいいものの、どうしたらいいものか。
ミザリーは小石を蹴飛ばしながら考えた。
薄黄色の小石は道の端に転がっていき、富豪の家の塀に当たって砕けた。
溜め息が出る。
本当はこの塀の中で、ピアノを弾いて暮らしたい。
でも、両親がいなくいゃだめなのだ。
それがこの国の普通だから。
幸せになる第一条件は、普通であること。
みんなと同じであること。
そして第二に、みんなと違うこと。
卓越したセンスを見せつけることだ。
そんな矛盾を抱えて、今日もミザリーを無視して地球は回っている。
町を歩けば、周りの人の視線が気になった。
見たこともないほど綺麗な服を着ているし、髪型もなんというか……。
特徴的だ。
これが普通?
ミザリーは首を傾げてまた歩いていく。
彼女は町の外を目指していた。
いつか、誰かが言っていたのを聞いたのだ。
「この孤児院の職員は、町の外まで子供を追えない。
隣町と争いたくないから。」
隣町がここよりいいところかは分からない。
それでも、歩かなければならない。
普通じゃなくても逆転してやる!
ミザリーはそう心に決めていた。
ここで、少しミザリーから視点を離してみよう。
というのも、この物語ではどうしても語っておかねばならない部分があるのだ。
これがないと、どうも話が複雑で見えづらくなってしまう。
それは、ミザリーの町には極夜という現象があるということだ。
ミザリーは生まれつきこの街にいたし、極夜を理解するにはまだ少し幼かったのでこの極夜についてよく知らなかった。
孤児院の中には朝も夜もなくて、例えミザリーにずっと夜が続くことだと言っても、多分理解できないだろう。
ところが隣町はと言うと、孤児院のある地域から何十キロも離れているので、極夜自体はあるもののその期間は非常に短い。
そういうわけで、今ミザリーの目の前は薄暗い。
街灯のおかげである程度の情報は得られるものの、先の方はあまりよく見えない。
そんな正午である。
ミザリーは当てもなく町をさすらっている。
隣町がどの方向にあるかもよく分からないが、ともかく孤児院とは反対方向に歩いていく。
その途中で、後ろから口笛を吹かれた。
振り返ると、手綱をしっかり握った馭者が不思議そうにこちらを見ている。
「どこまで行くの?乗ってく?」
馭者は馬を落ち着けながら言う。
ミザリーはぽかんと口を開けた。
この手の質問の時、お母さんは?だとかお父さんは?とか聞かれなかったのは始めてだ。
だから。
「乗りたいです。できたら、隣町まで。」
乗ってみることにした。
馬車は時々がたんと大きく揺れて、ミザリーを脅かした。
馭者はポケットに入っていたキャンデーをミザリーに手渡してにこりと笑う。
それからはミザリーのことはちらりともせず馬車を動かした。
ミザリーはきょろきょろと暗い町並みを眺めている。
こんな場所があるなんて知らなかった。
町はなんだか温かそうで、それでいてミザリーを抱きしめなかった。
町から離れていくと、徐々に視界は明るくなっていく。
もう隣町では極夜は起こっていないのだ。
初めて見る、明るい場所。
ミザリーは言葉を失うことしかできなかった。
「着いたよ。」
馭者はそう言うと、昼食のサンドウィッチをミザリーに渡して、どこかへ走り去っていった。
ミザリーは何度もその背中に頭を下げる。
涙がポロポロと溢れてきた。
大人は嫌いだけど、大人がいないと今の私は何もできないのだ。
でももう、理不尽な大人は追いかけてこない。
そんな文言がぐるぐるして、落ち着かない。
私は今、悲しんでいるのか、嬉しいのか。
よく分からない。
ぎゅっとつむっていた目を開けると、地面には何か黒いものがあった。
人だ。
背も高い。
それが優しそうにこちらを見ている。
親というものは子に似ていると聞いたことがあった。
彼は。私と髪型がそっくりだ。
「お父さん?」
彼はミザリーの言葉に返事こそしなかった。
だが、ミザリーにはそうだよ、と頷いているように見えた。
ミザリーは今度は迷うことなく喜びの涙を流す。
彼は何も言わずそこに立っている。
ミザリーが歩けば彼も一緒に歩いたし、寡黙な彼は不用意なことを言ってミザリーを傷つけることもしなかった。
ミザリーは鍵盤の前に座らなくても幸せになれることを知った。
これをいつか曲にするのだ。
ミザリーの胸はワルツを踊っている。
やがて、夕暮れが近づき、じわじわとねぶるように日が暮れていく。
彼は薄くなっていった。
ミザリーが慌ててその手を掴もうとしても、カチカチの土がそれを拒んだ。
紺とオレンジのグラデーションが次第に紺一色になっていく。
どう足掻いても父には触れられない。
ミザリーは半ば半狂乱だった。
薄くなっていく、その男は、やがて消えた。
あの町に帰ったみたいだ。
薄暗くて何も見えない、そんな町。
戻りたくない。
戻りたくないのに。
蹲ったミザリーの前に、またパッと彼が現れた。
「大丈夫かい?妻と話はつけてきたよ。
おいで。」
声のした方を見ると、先程の馭者がランタンを持って立っていた。
その強い光が、彼を連れ戻したのだ。
ミザリーはそれを半ば本能的に感じた。
この人といれば、父とずっといられる。
そんな風に。
ミザリーは馭者の手を取って歩き始めた。
町には街灯が眩しくついて、彼が現れたり消えたりしている。
「妻はいい家柄でね。」
と、シチューを混ぜている女性を指して馭者は言う。
ミザリーが不思議そうにしていると、今度はあるものを指差した。
ピアノだ。
ミザリーは飛びつくように駆け寄った。
馭者はにこにことそれを見ている。
ミザリーはやけむちゃに弾いた。
夫婦はそれを咎めずむしろにこにこしながら見ている。
彼らは子宝に恵まれなかったのだ。
愛くるしい娘が欲しかった。
こんな風に、無邪気な。
「ありがとう、お母さん。それから、ジェームズさん。」
ミザリーはコサージュの位置を直しながらこう言った。
豊かな髪はきれいに巻かれている。
それもそのはず。
今日は大舞台なのだ。
馭者夫婦はシワをぎゅっと寄せて微笑む。
ミザリーはステージへの階段を一歩一歩上った。
ミザリーはある日。
気がついたのである。
ステージにいれば、4方向に影が伸びることを。
たくさんの父が、見守ってくれることを。
ミザリーはアップライトピアノの前に座り、客席に微笑んだ。
目に飛び込んでくる、光。
彼女の足元を、四人の影法師が囲んでいる。




