吸血鬼の恋
鏡に映らない生活も早数千年。
長いものだ。
人間だった頃が懐かしい。
あの頃は人間が最も生きやすく幸福な生物だった。
だが今は違う。
我々モンスターが随分力を持つようになった。
そんな時代に吸血鬼になれたのだから、私は常に幸福な生き物だと言えるかもしれない。
モンスターが力を持ったということは、人間の数が減ったということだ。
無論家畜や狼などの血で渇きを癒すこともできるが、血というものは飲めば飲むほどその生物の性質をもらってしまう。
あまり獣の血ばかり飲んでいると、獣のような形になってしまうのだ。
元人間の私には耐えられない。
そこで、今までは僅かばかりの人類を獲物としていたのだが、それでも限界がきた。
少々値は張るものの、あそこに行くしかなさそうだ。
「ようこそ、いらっしゃいませ。」
きな臭い糸目の1つ目男が経営しているその施設。
人間牧場だ。
大昔で言う、奴隷売買所みたいなものかもしれない。
大して広くもない柵の中に囲われた人間たち。
用途は客によって様々なので、特に年齢や性別による金額の差はないが、病気のなりにくさや体力などで多少価値に差が出るものらしい。
元人間である私は人間の扱いに多少心得があるから、少しでも安いのにしようと思っていた。
「お客様、こちらの人間なんかどうでしょう?」
そう言って横から現れた支配人が勧めてきたのは、30代くらいの女性だった。
「食用にはちょうど良い肉付きかと。
また幾度の吸血にも耐えられる体力も保証します。
まあ、キズがあるので働かせるにはどうも……。
とはいえ、お客様のようなお安く取り引きされたい方にはちょうど良いかと思います。」
どうやら1つ目男は考えていることが読めるらしく、理想的な人間を勧めてくれた。
柵の中に力なく座り込む女性。
ここに来てから随分長そうだ。
「悪くないな。あれにしよう。いくらだ?」
「1000万ハルです。毎度。」
私は男の手に小切手を握らせると、契約書や説明書を紙袋にパンパンに受け取り、反対の手には首輪から伸びた鎖を渡された。
私は軽く頭を下げ、女性を連れて帰った。
空を飛ぶと首が首が絞まってしまうので、久しぶりの徒歩。
月はまだ沈まないだろう。
家に着くと、ひとまずダイニングテーブルで契約書やらなんやらを読むことにした。
女性も適当に座らせて、コーヒーをすすりながら。
とはいえそのほとんどはいわゆる「飼い方」で、そんなものは読んだところで大した価値は持たない。
興味をそそられたのは、「血統書」だ。
そこには人間でいうプロフィールが書かれている。
女性の出生地は、私が人間だった頃住んでいた場所だったのだ。
感慨のようなものを感じていると、ぐぅうという音がした。
女性のものだ。
どうやらろくに食わせてもらっていなかったらしい。
私は食料庫から適当に食べ物を持ってきて、女性に渡した。
私にとってほとんど栄養にならないそれらは、ただ舌を楽しませるためだけにある。
だが彼女にとってはご馳走らしく、美味しそうに食べた。
少しは警戒すればいいのに。
私は気づけばくすっと笑っていた。
女性はびくっとこちらを見たが、特にそれからいぶかることもなかった。
「ねぇ、あなたは……元人間よね?」
私が生きていた頃とは多少言葉は変わっているが、そんなふうに言っているのは分かった。
「牧場で、あなたがこの国の古い言葉を話しているのが聞こえた。
もう二度と聞けないと思っていたのに。」
女性はそう言ったが、私は何も言わず目を逸らすだけに留めた。
確かに、元が人間のモンスターであれば、生前の言葉を話すこともできる。
それが活きるとは思っていなかったが。
「何か言ってちょうだい!」
女性は不意に少し大きな声をあげた。
「頭がおかしくなりそうなの。」
私はそこで仕方なく、そう本当に仕方なく、こう口にした。
「そうだ。私はシュッツ王だ。
歴史の教科書で学んだか?」
女性は聞き覚えがなかったらしく、小さく首をふった。
それもそうだろう。
私は名君でも暴君でもなかった。
記録が残っているかどうかさえ怪しい。
「ごめんなさい。学べるほど人間は平和じゃないの。」
私はその言葉に興味をもって、初めて女性の目をしっかりと見た。
女性の目は時々揺れながら、こんな話をしてくれた。
足首に負っているこの弾創も、戦争によるものなのだと。
ずっと天下を誇っていた人間は、魔物からもまた天下を奪い返せると信じていた。
抵抗した人間は殺され、生き残った人間たちも醜く争いあった。
「結局、強いのは争わないことなのね。
あなた達は私たちよりも強い。
でも、争ったりしないもの。」
女性は最後にこう言った。
「そうだな。
戦争がなければ、私も人間のまま死ねたのに。」
私はそう言って頬杖をついた。
私は未洗礼のままに死んだ。
私は幼い王だったのだ。
享年は5か6かそこらだろう。
大人になることができたのは、こんなものになってから。
大人になれないままこの世を去るか、異形となってでもここに留まるか、どちらが良かったのかは知らないし、知りたくもない。
「モナは、今の人間なんだな。
私の生きていた頃、周りにそんなことを言う人はいなかった。」
私がそう言うとモナは苦笑して、
「そんなことないわ。
今も昔も、私みたいな人もいれば、シュッツ王の周りにいた人たちみたいなのもいる。
ただ、後者の方がいつの時代も多いみたいだけど。」
こう言った。
私もそれを聞いて思わず笑った。
それもそうかもしれない。
ただ私が数千年かけて見つけた答えを35年で見つけ出されたことがおかしかった。
「そういえば、どうして私を買ったの?」
モナは私をじっと見ている。
ここで私がなんと答えるか、それがいかに彼女にとって大事かはよく分かる。
とはいえ、正直に答えることにした。
「モナを買ったんじゃない。
モナの血を買ったんだ。
だから家では自由にしてていいし、働かなくてもいい。
ただし、逃げることは許さない。
まあ逃げたくなるほど嫌なことがあれば言ってくれればいいだろう。」
人をものみたいに扱うのは昔から嫌だった。
特に、モナは賢い。
こういう賢者は、丁重に扱わなくてはならない。
私は肩をすくめてみせたが、モナは何も言わない。
その視線は、私には床のタイルをなぞっているように見えた。
あの日から随分経ち、モナと私は時々チェスやバックギャモンに興じる仲になった。
モナは私に素晴らしい知恵を授けてくれたし、私もモナの願いは全て叶えた。
「皮肉ね。
人間界に人間らしくいるより、魔物に買われた方が幸せだなんて。」
「私が買ったのは血だけだ。」
「そうでした。」
モナの口から幸せ、という言葉が出て、私は震えをこらえた。
私は生前多くの民を自分の無知がために苦しめ、こうして死んでいる今は、誰かから何かを奪えど、与えたことは1度もなかった。
それが今、こうしてモナに与えられている。
これよりも嬉しいことがあるだろうか。
モナの血と知恵をもらって、私の足を与える。
お互いに、痛みは消えない。
それでもいいと、初めて本気で思えた。
そんなふうに、思い出を振り返ったってどうにもならないのだ。
昨日、モナは亡くなった。
老衰だった。
今思えば、モナはずっと太陽を見たがっていたから。
今頃たくさん見ているだろう。
私も、太陽というものが見たくなった。
明日の早朝、国に帰ろう。
日の当たり、輝かしい、私たちの国へ。




