第二章 嘘(3)
ドルフィン号は、日本の上空にあっという間にたどり着いた。
そこからオーダーを出すと、ホテルのセキュリティはあっさりと破れた。
さらに、偽警報を起こす。屋上近辺の警備員や、セレーナのいる階の警備員は、一階での騒動に大急ぎで駆け付けた、と、監視カメラに侵入して見ていたジーニー・ルカから報告を受けた。
僕は上空二万メートルから、ホテル屋上への着地を命じた。
ほんの十数秒でそれは実行され、三分もしないうちに僕はセレーナの部屋の前に立っていた。
僕のID。
何かあった時のために、と、あらかじめ(不正に)この部屋の開錠権限がコピーされている。
読み取り機にかざすと、かちゃりとロックが外れた。
僕が踏み込むと、セレーナは窓際の応接ソファに、外向きで一人で座っていた。
ゆっくりと振り向き、入ってきたのが僕だと認めると、驚いて立ち上がった。
「ジュ、ジュンイチ!? どうしてここに!?」
振り向いた彼女の頭には、リボンはついていない。
その気になればリボンで助けを呼ぶことさえできたはずなのに。
それは自ら外されて、執務机の上に佇んでいた。
応接机の上に冷め切った紅茶があるのが見える。ただ紅茶をいれ、冷めるに任せる生活をしていたのだ。
「助けに来た……と言いたいところだけど、その前に、どうしても話したいことがあって」
僕が言うと、セレーナは首を横に振った。
「……話すことなんてないわ」
「君は自分の状況を、分かっているのか?」
「分かってる。エミリアは馬鹿なことをしたわ。私は責任を取らなきゃならない」
彼女は僕の想像の通りの応答をした。
「……君一人で責任を負うことはない」
こんな言葉はきっと無意味。彼女はこの宇宙で最も誇り高い王族だから。
「いいえ。私は、このたくらみを知ってた。知っていてあなたにも黙っていたし、何も手を打たなかった……」
彼女の言葉の語尾が濁ったのを、僕は聞き逃さなかった。
「手は、打ったんだね。そして、失敗した」
セレーナは、僕の言葉に何も反応を示さず、じっと床を見ている。
「……繋がったよ。君があの時地球に来た理由」
僕はようやく、何もかもを理解した。
「気に入らない結婚から逃げるためだなんて大嘘だ。君は本当は――地球との間でおかしなたくらみを進めてる陛下を止めようとしていたんだ。その会見を邪魔するか、乱入してぶち壊すか――」
「見ていられなかったの。摂政の――ロッソの言いなりにあんなことを進めてるパパを」
セレーナの声が、震える。
「だけどロッソに逆らえるやつなんてエミリアにはいない。だから、私が事故を起こしてやろうと思った。ロッソはそんなことお見通しだったわ。その後は、あなたも知っての通り」
セレーナの視線は空中を泳ぎ、僕の瞳にどうしてもたどり着かなかった。
「……がっかりでしょう。私が最初から最後まで嘘つきだったってこと。そう、全部嘘だったの。だから、おしまい。何もかもおしまいにするの」
僕がいつか、心の暗闇に負けて決心したことを、彼女はまるで同じように繰り返した。
「せめて、僕に連絡することはできなかったのかな」
「もうあなたに会わずに帰るつもりだった」
セレーナは、首を振った。
もうあなたは関わるべきじゃないと、言外に、そう言うのだ。
――きっと彼女はそう言うと思っていた。
彼女がそう言ったときが決断のときだと、僕は決めていた。
残酷な一撃に向けての。
「……そうだと思った。だから、僕は来た。君と永遠の別れになる前に」
僕は一歩、歩み寄って、セレーナの瞳を見据えた。
……何度も何度も練習した言葉を、もう一度、思い出す。
セレーナは怯えたような瞳で僕を見つめ、それから目を逸らした。
「セレーナ、僕は君に伝えたいことがある」
セレーナは、うつむいた顔で、びくりと肩を震わせた。
「……それは、私が聞いちゃいけない」
もしかして、彼女はこれからの僕の言葉さえも予想しているのだろうか?
でも、かまわない。
続けるしかない。
「これは僕の気持ち。君にどうしても知っていてほしい」
「やめなさい、ジュンイチ」
彼女の頬を涙が伝うのが見えた。
「そして、君が僕をどう思っているのか、聞かせてほしい」
「やめて……お願い、やめてっ……」
悲鳴を上げるように、セレーナは首を横に振った。
「いざとなると難しいな、でも、言うよ」
「お願い……聞きたくない……」
「僕は……」
セレーナはいく筋もの涙をこぼした。
「お願い……」
もう、やめてもいいんじゃないか。
分かりきってるじゃないか、彼女の気持ちなんて。
「僕は、君が好きだ。友達とか主従だとかじゃない、一人の女性として」
セレーナの声はついに聞こえなくなった。
「好きなんだ。好きで好きでたまらない」
そして、彼女の声は嗚咽に変わった。
「いつまでもいつまでも僕のそばにいてほしい」
両手で顔を押さえ、肩を震わせるセレーナ。
「いつまでもいつまでも君の笑顔を守らせてほしい」
くじけそうになる。けれど、最後まで。
「これ以上伝えるための言葉がないのがとても残念だ」
僕の両目からも涙がこぼれていた。
「もう一度言うよ。僕は君が好きだ」
最後の言葉を伝えたとき、セレーナは崩れ落ちた。
僕の愛の告白は。
すべて。
嘘だ。
彼女の本当の心を知るための。
なんて、残酷なことを、僕は。
分かっているじゃないか。
セレーナが、そんな陰謀に加担なんてしていないこと。
僕をたらしこんで新連合をエミリア陣営に取り込もうなんてことを、彼女が考えていたなんて。
座り込んで泣きじゃくるセレーナを見れば、そんなの、分かりきっていたことだ。
誇り高く僕を導いてきた彼女を思い出せば、そんなことは明らかだった。
もし彼女が僕の愛の告白を受け入れるなら。
それはそれで仕方がなかったと思う。
だけど。
僕が彼女に本当に期待しているのは。
エミリアを、もっと素晴らしい国に。
彼女が胸を張って誇る、そんな国に。
彼女自身の手で変えてほしいと思ったから。
彼女は、僕の誇りなんだ。
セレーナは、ようやく顔を上げた。
「ごめん……ごめんね、ジュンイチ……私は、それを受け入れられない……」
それが彼女の答えだった。
僕が心から望んでいた答えだった。
また両手で頬を押さえるセレーナ。
でも、泣きながらも気丈に口を開いた。
「私が今それを受け入れたら……私は国のためにあなたの気持ちをもてあそぶことになる……きっと、元通りの二人に戻れなくなる……」
そして、再び顔を上げた。
「……でも、もうだめね……私はあなたの気持ちを聞いてしまった。もう元通りには戻れない……」
首を横に振る彼女の頬を何条も涙が伝った。
「ありがとう、セレーナ」
僕は片膝をついて、そして彼女の両手をとり、無理やりに立たせた。
「それから、ごめん。全部、嘘」
その言葉を聞いた時のセレーナの顔は、驚きだろうか怒りだろうか。目を見開き、口が半開きで。かわいいな。
「それからもう一つ、ごめん。僕は君を疑っていた。君の強さと勇気を。そんなもの、もうずっとずっと前から知ってたのに」
ううーっと唸りながら、セレーナはさらに涙をこぼした。
「好きでもない男と国のために結婚なんて……僕がさせない。だけど、どうしても君の気持ちが確かめたくて……もし君がそれを選ぶなら、このちっぽけな僕の存在が君の役に立つなら……とも思ってた」
「全部……全部、嘘なの?」
セレーナがようやく口を開いた。
「……なにもかも」
僕が答える。
「もう戻れないと思ったのも……」
「……嘘」
「ずっと……今までどおりの友達で……」
「もちろんだとも」
「こんな不甲斐ない私でも……」
「君は大切な友達だ」
再び、セレーナは呻き声を漏らし、何度も首を横に振った。
「知らなかったの……ほんとなの……私があなたとそんな仲になることを……パパや摂政が期待していたなんて……でも私にとってもジュンイチは大切な友達だから……私がジュンイチを本気で好きになれたらよかったんだけど……そうと知ってからは、ただジュンイチと一緒にいるだけで、ジュンイチの気持ちをもてあそんでいるように思えて……自分が情けなくて……私は最低の人間だわ……」
「だけど、君は僕の告白をはねのけた。それは、君の心にまだ誇りがあるからだ」
両手でセレーナの手を握りしめる。
「……さあ、一緒に行こう。その誇りがあれば、また立ち上がれる。君にそんなつらい思いをさせた奴らに報いてやろう」
セレーナはまた咽び、数滴の涙を床に追加した。
「ジュンイチも一緒なら……うん、戦える」
僕がうなずくと、しかし、セレーナは再び首を横に振った。
「でも……私には……決められた未来しかなくて……どんな未来でも選べるジュンイチを……縛れないわ……」
彼女に生まれたときから運命づけられた未来。
王女として、女王あるいは王の母として。
そのくびきは彼女を苦しめ続けていた。
ただそれがあるがために、自らを小さなかごに閉じ込め続けてきたセレーナ。
もしそんなくびきが彼女の勇気をくじこうとしているのなら。
そんなもの。
「だったら、僕が選ばせてやる。王族だの貴族だのがなんだってんだ。そんなもの、君がぶち壊せ。君が変えるんだ。」
「ジュンイチ……?」
「忘れたのか! 羽をもがれたルイスを。彼は、君だ。彼の最後の希望は君だ。彼は君を王女と知って、それでもすべてを託してくれた。だから、君はエミリアを変えるんだ。そう言ったじゃないか。そして、エミリアを変えるのと一緒に、君自身の未来も」
練習していなかった言葉が次々と口からあふれ出てくる。
「君に敵が立ちはだかるなら僕が蹴散らしてやる! 宇宙のすべてを敵に回しても君の未来を縛らせやしない!」
僕が言うと、セレーナは両手をほほに当てて、再び大きな嗚咽を漏らした。
「ありがとう……ジュンイチ」
僕は片膝をつき、彼女の右手を恭しく取って僕の頭上に掲げた。
「殿下、僕の不遜な試みをどうぞお許しください。僕は、殿下の気持ちを確かめたかったのです。ロックウェルや地球や、エミリアの貴族たちの、殿下を陰謀に巻き込もうとする圧力に殿下が屈するかどうかを。それに屈してこの僕を受け入れようとするかどうかを。殿下はそれをはねのけ、この僕を拒否なさいました。僕は殿下の強いお気持ちを知ることができて満足です。殿下はきっと、エミリアを変えることができます。もう安心でございます。この僕の不敬な試みをどうぞ罰してください」
徹底的に尊敬語を駆使して申し上げる。
と。
セレーナは吹き出した。
「ばっ、馬鹿……ね! あんなのが嘘ってことくらい分かってたわよ!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で大笑いした。
そう、それでいいんだ。
馬鹿な僕と叱りつけるセレーナ。
その関係で、さっきの取り返しつかなくなるかもしれない嘘は、すべて帳消し。
「どうせこんなのもあなたの考えじゃないでしょう! トモミ? ……いや、レオンね!」
大当たり。
「……僕らの敵の陰謀の終着点は君と僕の結婚だと、だったら、直行便を出してやつらを驚かせてやれと、毛利が、ね」
「相変わらず単純な男! ぐずぐずと悩んでばかりのあなたとは大違いだわ!」
「ひどいな、これでも悩みを吹っ切ってここまで歩いてきたんだ」
さっきの物言いは、僕だけでなく毛利まで貶しているような。それはそれでひどい。
「……私も悩んでた。決めたと思いながら悩んでた。私はどうしようもない大嘘つきであなたの気持ちをずっともてあそんでいたって……でも、あなたの馬鹿馬鹿しい求愛で目が覚めたわ」
僕の手をぐいっと引っ張って立たせた。
「もし本当に私の気持ちがほしいのなら、全宇宙を相手にして私を守り抜いて見せなさい!」
「もちろん僕は全宇宙を相手にしても君を守り抜くさ。君の気持ちがほしいかどうかは、それから考えるよ」
「……ふんっ、それは駆け引きのつもりかしら?」
「どうだろうね」
しばらくにらみ合って、それから二人は同時に吹き出した。
「君も調子が戻ってきたみたいだ」
「あなたもね」
「じゃあ、出発しよう」
「二度と戻れないかもしれないわよ」
「もう母さんには宣戦布告してきたよ」
「……呆れた。私が立ち上がるって知ってたのね」
「もちろんさ、君は誇り高き我が王女だ」
「じゃ、我が命に従いなさい! 行くわよ!」
セレーナが僕の手を取り。
身の回りの荷物と、大切なリボンだけを掴んで、僕らは駆け出した。
それはホテルの無味乾燥な扉だけれど。
僕らにとっては、自由と未来への扉だった。




