第一章 なすべきこと(3)
翌日は母さんが帰る前にセレーナを迎えに行った。心配だと言って浦野もついてきた。何を心配しているのかはよくわからなかったが、僕の家に来る前には帰ってもらった。きっと、繊細な問題になるだろうから、と。
セレーナは僕の家に来ると、以前と同じように、礼儀正しく上品な笑顔で挨拶をした。
いらっしゃい、と軽く答えて、親父は店に戻った。
二人だけで母さんの帰りを待った。
会話はなかった。
母さんの帰宅はすぐだった。
午前十時半。
母さんは玄関から続くホールを潜り抜け居間に通ると、僕の顔を見て、それから、セレーナがいるのを見た。彼女がいることに対して、さして不思議そうな顔はしなかった。
僕は三人分のコーヒーを入れて、テーブルに並べた。
僕とセレーナが並ぶように座り、母さんが向かい合った。
コーヒーをひとすすりして、母さんは大きなため息をついた。
「ただいま。それから、お帰りなさい」
「お帰り。……ただいま」
母さんがお帰りと言った意味は、深く考えるまでもないだろう。
「純ちゃん……それから殿下、みんなが、自由圏のお友達と出かけていたことは知っています」
母さんは簡潔に、自分の理解を僕らに伝えた。
自由圏のお友達。
この言葉だけで、どこまで深く母さんが事態を把握しているのかを知った。
「うん……ファレンに行ってた。エミリアとロックウェルの確執の焦点」
「そこまで理解していて、なぜまだエミリアにかかわるの」
母さんは僕に向かって言った。
分かってる。
この話し合いですべてをおしまいにするつもりだから。
「それは……エミリアと僕との関係を知るため」
僕の横でセレーナが小さく身じろぎした気がした。
「いや、エミリアと新連合って言った方がいいのかな」
「……つまり、新連合が、惑星カロルの件、マジック鉱の件にどんな風にかかわっているのか、ってことね」
母さんの言葉に、僕は小さくうなずく。
「……殿下の前では言いにくいことだけれど、新連合は……ロックウェルの強硬姿勢よりは、エミリアの独占思想の方が、危険だと思ってます」
……やっぱり、そうなのか。
そうなんじゃないかと思っていたけれど。
「新連合は常に中立。だから、どんな働きかけにも応じるつもりはありません」
母さんは、新連合は、セレーナが地球にやって来た理由まで分かっているのだろうか。
母さんの物言いはあいまいで、そのあたりがはっきりしない。
「宇宙のことは宇宙人に任せる。それが新連合の一貫した立場。千年前からね」
「だったら、セレーナはどうしてここにいるの」
僕はたまらずに尋ねる。
「エミリアにはエミリアの考え方があります。新連合として、他国からの留学の申請を理由もなく却下するわけにはいかない、それだけで分かるかしら」
つまり、今進んでいる陰謀は、一方的にエミリアが進めていることだと。
それが、母さんの言葉から分かること。
言葉通りにとらえるなら、新連合は共謀者ではないということだ。
右に座っているセレーナを見ると、膝に手を置いてうつむいたままだ。
僕には、セレーナを誘惑し恋に落とすという目的はない。それは僕自身のことだから分かっていた。
たぶん今、セレーナにもそのことがきちんと分かっただろう。
一方のセレーナはどうなのか。
……分からない。
だったら、放っておくしかないんだろうな。
もしそんな目的があったとしても、僕がなびかなければすべて終わりだ。
「殿下」
母さんはついにセレーナに声をかけた。
「……はい、オオサキさん」
セレーナは力なく応じる。
「忠告はしておきます。エミリアが姿勢を改めなければ……新連合はつらい決断をすることになります」
……きつい一撃だ。
たぶんもう、セレーナは、エミリアに帰るしかない。
改めなければ、と言うのだから。
ここにとどまることを許さないと。
母さんの言葉はそういうことだ。
友達ごっこくらいなら、と思っていた僕の認識は、ちょっと甘すぎたようだ。
「……肝に銘じます」
何も反論しないセレーナが、とても頼りなくて。
何かが僕の心の中ではじけて、大きな穴をあけたような不安な気持ちと――。
同時に、少しの安堵があった。
セレーナとの友情の終わりを、知った。
***
週が明けた。
久しぶりの学校。
登校して、左の窓際の席に目をやる。
主はいない。
結局彼女がこの席を占めたのは二カ月にも満たなかった。
彼女がこの席に姿を見せることは、二度と無いだろう。
僕はそのことにとても安心している。
でも、なんだか胸につっかえているものがあって。
……楽しかったな。
彼女といるのは、楽しかった。
そう思うと、なんだか泣きそうになる。
まだ、思い出として整理できそうにない。
楽しかったという気持ちと、失って悔しいという気持ちが、まだ鎖で繋がれていて、素直に楽しかったと言えそうにない。
そんなものともこれからは向かい合って、解決していかなくちゃならない。
でも、もうしばらくは、まず現実に慣れよう。
この席にあの人の姿が無い現実に。
席が空のまま、授業が始まった。
一限目の授業は数学。
相変わらず、つまらないな。
窓の外を見やる。
邪魔になる窓際の人はいない。
外は曇っている。でも雨が降るほどじゃない。
僕らが旅をしている間に雪が降ったらしく、遠くの森林公園には点々と雪が残っている。
その五十分間は、僕の視界をそんな景色が覆ったまま終わった。
「……大崎君、セレーナさんのこと、知らない?」
休み時間に、浦野が声をかけてきた。
「昨日、何か言ってなかった?」
「特に、何も」
あの人は、学校のことは何も言わなかった。
言わなくても分かっていたから。
「ちゃんと……話し合ったのよね?」
あれを話し合いと言うのなら。
「……一応」
と僕は答える。
「……まだ整理がつかないのかなあ。誰もセレーナさん個人のことを責めるつもりなんてないのに……ねえ、放課後、もう一度行きましょう」
どこに?
何をするために?
僕には何もすることがない。
「考えておくよ」
あいまいな返事で返すしかなかった。
「ああ、でも」
僕は思い出した。学校に来て一番に先生に言われたことを。
「マービンの手配してくれた補習が放課後だから」
「補習と友達とどっちが大切なのよう」
「……模範的な高校生としては、補習って言っておかなくちゃね」
僕が冗談交じりに言うと、じゃあ、セレーナさんのことはまたそのあとでも、と言って浦野は笑った。
一日の授業が終わり、いよいよ、二週間の遅れを取り戻すための無茶な補習だ。
考えてみれば、この四人のために放課後に駆り出される先生もひどい貧乏くじだ。
毛利、マービン、浦野、そして僕の四人を相手に、一限分を二十分以下に圧縮した地理学の補習が四コマ分、行われた。明日は化学だ。
終わってみると、外はほとんど真っ暗だ。
「大崎、浦野にも言われたんだけど、セレーナさんのところに、これから行くんだろう?」
「何か訳があって休んでいるんじゃないかと聞いたんですが」
補習が終わるや否や毛利とマービンが問い詰めてきた。
「まだ体調がよくないんじゃないかな」
……僕は、嘘をついた。
こんな嘘をつくことができるなんて思わなかった。僕の心を映すように、窓の外の空は重く、暗い。
「でも昨日はもう元気そうだったよう? ねえ、どうして休んだのか、聞きに行きましょうよう。何か悩んでるなら、聞いてあげましょうよう」
浦野が無邪気に提案して来る。
僕はあの人の悩みなんて聞きたくない。
僕を誘惑しなきゃならないエミリアの目的と、それを許さないという新連合の意志。
国と国民のために命さえ捧げると宣言した彼女が、たかが地球の小僧一人を誘惑することを拒絶などすまい。
だから、彼女を悩ませているのはそのこと自体ではなく、それを許さないと言った新連合との関係なのだ。
のこのこと自分が登校すれば、新連合がどんな手で出てくるか。
そんなことに悩んでいるわけで。
……いや、悩んでさえいないんじゃないかな。
ともかく僕の出る幕じゃない。
「……僕はやめておく」
一言だけ言い残し、僕は鞄を持って教室を出た。
誰にも制止されなかった。




