第二章 もう一人の転入生(1)
■第二章 もう一人の転入生
翌朝、セレーナはごく普通に、ずっと昔からこの高校の生徒だったかのように登校してきて、仮の自席に優雅に腰を下ろした。
午前中、十分の授業の合間の休みには大したことは無かったものの一時間半のお昼休みの後半に最大のセレーナを囲む輪ができていた。見ると、浦野までそれに参加してしまっている始末。
それを遠目に見ているほうが逆に目立ってしまうということは自覚もあるんだけど、と言って、あの輪に参加する方がもっとおかしな事態を招くだろうことも想像がついて、結局僕は自分の席でフリーズしているしかなかった。
にもかかわらず、なんとなく、いやらしくも聞き耳を立ててしまう。
「エミリアでも高校生だったの?」
女子の一人が訊いた。
「いいえ、学校には行っていませんでした。エミリアには高校って無いんですよ」
「高校が無いの?」
「ええ、エミリアでは、六歳から入れて最大十二年通えるスクールと十二歳から入れて十二年通えるカレッジに分かれているんです。スクールにそのまま通って義務教育を終えても良いし、途中でカレッジの専攻科に編入しても良いんですよ」
へー、そんな仕組みだったんだ。エミリアとの付き合いは長いつもりだったけど、そんな仕組みさえ知らなかった。
「こちらでは九年の基礎学校と三年の高校と大学を順々に通うんでしょう? 途中で専門教育を受けたいと思った人はどうするんですか?」
セレーナが逆質問する。
「うーん、考えたことなかったですー。学校って順々に通うものだって思ってたし」
ま、途中で専門教育を受けたくなるほど能力がある人はさっさと飛び級しちゃうんだけどね。
「だったら、せっかく能力があっても、高校を出るまでは専門教育を受けられないんですね」
ちらっと僕の方を見た気がする。ああ、あれか、僕に数学の才能があるとか無いとか、まだこだわってるんだな。
それにしても、千年以上も続くこの教育システムが今さら変わるとも思えない。エミリアみたいに新しい国が興ったのならともかく。
「そういえば昨日もおっきなリボンつけてたよねー、リボン集めてたりするの?」
突然、別の女子が話題を変えると、
「このリボンは、そうじゃなくて特別なんです」
と答えるセレーナ。ジーニー・ルカとのブレインインターフェースの外部アンテナの役割をしているのがあのリボン、ってことは、僕しか知らない。
「特別? 誰かからのプレゼント!? ひょっとして彼氏? っていうか、大崎か?」
別の男子が口を挟む。
「そういうのではないですよ、オオサキさんとは彼のお母様とのことでちょっとご縁はありましたけど、そのような関係ではありませんし」
オオサキさん。ですか。
もう何だか口調とか僕の呼び方とか、聞いていて背筋が寒くなる。
いつまで猫かぶっているつもりなんだろう。どうせどっかでぼろ出してばれるだろうに。
「えー、じゃあ、フィアンセとかいるんすか!」
さらに別の男子の質問。
「今のところはいませんよ、どなたか立候補されますか?」
セレーナがにっこりと笑って首をかしげて見せると、おおーっという男どもの歓声が上がる。
「ただその場合は、枢機院での公開諮問に加え、三公家、七侯家それぞれの厳しい試験を経た許可と、十八の諸侯、六十五の諸侯未満の貴族家すべての承認を経た上で最後に御前会議査問を受けていただく必要がございますけどね。それで、ようやく候補の身分です」
セレーナが淡々と説明すると、男どものどよめきはいっせいに静かになる。
「今のところそれをパスしたのはただ一名のみなのですよ?」
「ええー、まさかそれって、大崎君ー?」
と言ったのは、こともあろうに浦野なのである。
どうやら浦野とセレーナの間には元から面識があったらしい、しかも僕もなにか絡んでいるらしい、ということはどこかからうわさが広がっていたらしく、そんな浦野の言葉なものだから、そこの輪を形作る連中の目線が一斉に僕に刺さった。もちろん、あの日、校庭で堂々と僕をさらって逃亡したのがセレーナその人なのだから、そんなうわさにはいくらでも尾ひれが付こうというものだ。
セレーナはちらりとこっちを見て、それからはっきりとした口調で、
「ありえません」
と言い切った。
まあ、そんな展開は一ナノメートルも無いとはっきり言われた記憶もあるし。一ピコメートルくらいは? ……ないだろうなあ。
「実のところ、私の従兄弟、アントニオ・グッリェルミネッティ様が唯一の候補なのです。彼は、あそこのあれに比べれば、聡明にして懇篤、立ち振る舞いは流麗にして強靭な意志と受容性を兼ね備えた方なのです。比べるのもおこがましい」
相変わらず僕をこき下ろすときだけは良く回る舌だこと。
誰かがぷすっと笑ったのが聞こえ、なんだかもういたたまれなくなって、心の中で耳をふさぎ、情報端末を取り出し、机の上に放り出して視線を落とした。
特に何をするというわけも無く、端末を点けてみたものの、いつもチェックしているオンラインニュースのルートはとっくに見終わっていたし、本も読み終わっていて見るものもないし。
なんだかだでジーニー理論の本も読み終わってしまっていた。
結局前回の事件のときに役立ったのは、僕のジーニー理論を応用した的確な指示ではなくて、浦野の古代語の短詩だったわけで。
せっかくの知識が役に立たなかったのが口惜しくてもっと深い理論を知りたいとか思ってしまうのも、セレーナの口車に乗せられているみたいでちょっとしゃくだけど。
だけど、本当に、ジーニー、幾何ニューロン情報理論ってのはどこでどうやって生まれたのだろう、と不思議に思うくらいに、ぶっ飛んだ理論からスタートしている。まるで、神様のような存在が最初からそんなものを用意していたかのように。
原子サイズの最小素子、つまり、疑似的な『ニューロン』の三次元的な配列そのものが量子論的な干渉条件を規定し、しかもその境界条件がニューロンクラスターの外にまで漏れ出している(しかもその『外』が数ナノメートルなのか? 数光年なのか? さえ分からない)ことが不思議な『直感』と言う仕組みを作り出していて、さらに直感を支えるあいまいな記憶『フェーディングメモリー』こそその境界条件の幾何学的な配置のばらつき・揺らぎそのものであって……それに比べれば、ジーニーのメインエンジンであるはずの幾何ニューロン回路による通常の論理記憶や論理演算など児戯に等しい。もしこの直感やそれを支えるあいまい記憶を自在に操れる技を持つことが出来たら、あらゆるジーニーを支配下に収める宇宙の王になれるだろう。現に、セレーナのジーニー、ジーニー・ルカは、すでに直感の力で論理演算を否定することさえやらかし始めている。いずれ、人類の誰も関与できないジーニーの直感が政治や経済を動かし始めるかもしれない。いや、もう、すでに?
……別に僕がその宇宙の王になりたいなんて話ではなくて、それにしては良く出来すぎているこの不思議な仕組みを、もう少し砕いて勉強してみたいという欲求が沸いてしまったのは事実だ。
そういうことで、時々、端末を開いて何もすることが無いときには、ついつい、ブックマーケットを開いて、関連しそうな本を検索してみたりすることがあって、その中でも気になっている本がある。
お気に入りリストに入れたその本の表紙だけを開いてみる。
『幾何ニューロン情報科学と脳科学の統合学習』。
目次を見れば、幾何ニューロン情報学と脳科学の相似性だとか、ジーニーだけがブレインインターフェースを扱えるその特異性だとか、その辺のことが詳しく解説されているように見える。そう、なんだか、脳科学こそがジーニーの仕組みの肝にありそうな気がするのだ。
そもそも、脳のニューロン配置の完全な解明は千年以上の試みにも関わらず失敗し続けている。個人差が大きすぎるのだ。にもかかわらず、ジーニーは、脳の特異な仕組みを見事に取り込んでいる。ブレインインターフェースを易々と操る。そう、まるで神様が最初からそう創ったように。あらゆるジーニーはあるプロトタイプからのコピーで作られているらしいけれど、そのプロトタイプを作った天才の記録は、少なくとも僕は見たことが無い。
だからこそ、そこに一歩でも近づいてみたい、と思うのは、どちらかと言うと歴史学への興味に近い気持ちだったりする。そういう意味で、この本に書いてあることはとても興味深いわけで、こうやってお気に入りに入れて時々眺めている。
でも、何が困るって、この本が二十クレジットもするってこと。正確には十九と四分の三クレジット。僕のお小遣い三か月分に匹敵する。僕のクレジット余力はなんだかだでもう二十六クレジットしかないわけで、残り六クレジットと言う寒々しい残高はあまり見たくない。
『購入』ボタンに手を伸ばしかけて、悩んで引っ込める、と言うことを三回ほど繰り返したところで、突然肩を叩かれた。
「何してんのよ」
びくっとして振り向くと、セレーナが立っていた。
「あ、あれ? 連中は?」
「用事があるんでまた後でねったら散ったわ」
「そっか」
その直後に僕のところにきたらまた変なうわさの尾びれが増えそうな予感はするけれど。
「で? なにそれ?」
僕の端末を覗き込みながら、彼女は質問を繰り返した。
「ああ、いや、べつに……」
「幾何ニューロン情報学……ジーニーの教科書じゃない、買ったの?」
「いや、二十クレジットもするんじゃおいそれと買えないよ。ランチのアップグレードが一ヶ月毎日できちゃう大金なんだから」
僕も端末に目を落とす。
「はー、もう、相変わらずあなたはみみっちいことばっかり言うのね。いつも誰かに背中を押されるのを期待してるみたい」
それから、彼女はもう一回ため息をついて、僕の顔のすぐ横まで自分の顔を下ろして、なんだろう、端末の細かい字を何か読んでいるみたいだな。
と思った瞬間、僕の端末に表示されていた『幾何ニューロン情報科学と脳科学の統合学習』のステータスが『購入済み』に変わった。
うえっ、とかいう驚きの声を上げながら振り返ると、セレーナはすでに背筋を伸ばして僕を見下ろしていて、
「……別に不正はしてないわよ。ちゃんと私のクレジットで支払ってあなたにプレゼントしただけ」
僕に驚かれたことが逆に不満だったようで、ちょっとご機嫌斜めのセレーナと目が合った。
「何度でも言うけど、あなたは才能があってどんな未来だって選べるのに、歴史だ何だってことに凝り固まってるのが惜しいと思ってるだけよ。あなたがエミリア市民だったらとっととカレッジに強制編入させてるところよ。この私にここまでさせたんだから、とっとと読んじゃいなさい」
「でも、悪いよ、こんな高い本……」
「……たった二十クレジットが?」
「……さすが、四億の余力がある王女様は違いますね」
プレゼントしてくれたことはもちろん嬉しいけど、やっぱりセレーナはとんでもないお金持ちの王国の王女様なんだと再認識する。
「ふん、誰かさんとのごたごたの後始末で馬鹿みたいにお金をつかったせいで、今は1.5億しか余力ありませんけどね。今年の予算が枢機院で可決するまでのあと三ヶ月間はこれで全部よ」
「いやそれでも十分だろ……っていうか、そうやって王女としての財力を使うことは、君の権力を使わずに世間勉強するって言う課題の中では禁止されてないのかい?」
「王族の権力と個人の資産は別物でしょう? 平民や下級貴族を好きなようにこの世から消せる王族の権利とちょっとしたお買い物が出来るだけの私個人のお金が同列とは思えないわ」
「はあ、確かにそうですね」
僕ももうため息をつくしかなかった。
これは、世間知らずだから市井で勉強してこいと言われるのも仕方あるまい。
「……でも、ありがとう、がんばって勉強するよ」
「読み終わったら言いなさい。次に読みたい本も選んだ上でね」
そう言って、セレーナは背中越しに手を振りながら教室を出て行った。




