第一章 日常(3)
緩やかな山の斜面に建てられた、ほとんど真四角の小さな僕の家は、目立たないという意味においてはうってつけだとは思う。表札に標準アルファベットに併記で『大崎』と古語漢字で書いてあるところはちょっとした特徴だけれど、この島の文化では珍しいことじゃない。一方、反対から見ると、この小さな家は小さな料理店を兼ねていることが分かる。カウンターに四席と四人が入れる個室が三つだけの小さなお店。
親父が半ば趣味でやっているその店は、母さんが新連合国職員としてたっぷりと稼いでいるからこそできる道楽にすぎない。母さんは一度出かけると一か月以上戻らないことも多いような仕事で、いつも新連合国内を飛び回っているらしいし、時には自由圏の国々に出かけることさえある。残念ながらどんな仕事をしているかは僕にはあまりしゃべらない。母さんにとっては、僕はまだ小さい子供なんだろう、と思う。
「ここだ」
僕は自宅を彼女の指し示した。
「ふーん……ずいぶん小さな建物ね」
微妙に失礼なことを言う彼女を、薄茶色の玄関ドアから招き入れる。
彼女にはとりあえずリビングに通ってもらった。彼女の白無垢の衣装には申し訳ないほどすすけた緑のソファを勧める。彼女はありがとうと言って静かに座る。
とりあえず、自室に戻って窮屈な学校の制服を脱ぎ捨て、シャツにジーパンという格好に着替えた。
親父の姿を探しに、厨房に向かう。
厨房に続く小さなドアを開けると、思った通り、親父はそこにいて、相変わらずの無精ひげ面で、何やら魚の切り身のようなものを細かく切っては謎のタレの中に漬け込んでいる。創作も大概にしないと常連が逃げちまうぞ、とは思うのだが、趣味のようなものだから仕方がない。何より、忙しい母さんに代わってこの家を管理し僕を育ててくれたのもこの親父だ。その仕事をしっかりと果した上での趣味なのだから、僕がとやかく言うのは筋違いというものだろう。
なんてことを考えている僕の姿に気付き、親父は手を止めた。
「結局連れて帰ったか、えー、その――」
僕の表情を読んで、親父が言う。
「うん。リビングにいる」
「しょうがねえな、とりあえず話を聞いてみるか」
二人でリビングに戻ってみると、謎少女は相変わらず行儀良くソファに腰掛けている。
そう言えば、名前も聞いていない。なんと呼べばいいのか分からないので、あのぅ、なんていう情けない呼びかけで彼女を振り向かせた。
「あら、お父様ですの?」
と彼女は優雅に立ち上がった。
「初めまして、セレーナ・グリゼルダ・グッリェルミネッティと申します。息子さんには大変お世話になっておりまして」
セレーナ(という名前らしい)は言葉を続けながら、急にしおらしく礼儀正しくつつましい態度で親父に深々と頭を下げた。
それを見て親父も、意味もなく襟を正して裾をはたき、
「あ、いやいや、こちらの方こそ、息子の純一が何やらご迷惑を」
と、なんだかよく分からない社交辞令で返す。
「えーと、セレーナ、まあとりあえず、話してみてよ、君の話を」
僕はそういってセレーナに話を促した。彼女は、何かむっとした表情を一瞬見せた後、すぐに笑顔を取り繕う。
それから、周りを何度か見回して、盗聴器が無いことを確認するような仕草を見せる(本当に盗聴するなら見たくらいじゃ分からないところに仕掛けると思うけど)。
「突然で申し訳ありません。実は私、エミリア王国というところの、国王の娘なのです。少々面倒に巻き込まれておりまして、しばらく姿をくらましたいと思っていたところを息子さんに助けていただいた次第なのです」
一息にとんでもないことを言い切ったセレーナは、最後に頭を下げた。
王女って。
いや、妄想設定作るにしても、ねえ。
もうちょっと現実的な設定なかったのかね、セレーナ姫の頭の中の妖精さん。
「それで、お父様のお許しさえあれば、もうしばらくジュンイチさんをお貸しいただけませんでしょうか。その、私のIDを使いますと、たちまち追っ手に居所がばれてしまうのです。ジュンイチさんのIDを使って少し遠くまで逃がしていただきたいのです」
ついでに、敵はID記録を追える設定も追加。
身分と資産とその他もろもろを保障するID、せいぜい、本人かその保護責任者くらいにしか履歴の閲覧は許されていないし、もちろん、スパイだろうが愉快犯だろうがIDシステムがクラックされたなんて話は聞いたことも無い。
それを追跡できちゃうんですか。
頭のネジが緩んでいるどころかその隙間からとんでもない妄想が漏れ出している。
「もちろん、旅費は後から補てんさせていただきますわ。四億クレジットまでなら私の裁量で自由にできますから」
妖精さんが大暴走。
いくら王女様でも四億も自由にできるような王女様がいるものか。ポケットマネーでちょっとした資源商社を買収できちゃう王女様?
仮に東京まで逃げても半クレジット。四億も使ってどこまで逃げるつもりだ。
「ことがことですので、簡単にご了承いただけることとは思いませんが、相応の御礼はさせていただきます。どうか、助力をいただけませんでしょうか」
初めての時の高圧的な態度はすっかり鳴りを潜めているし。
どうしたものか。
そう思いながら、親父の方に顔を向ける。
当然、親父も難しい顔をしている。
どうやって病院の情報を聞き出そうか、という顔だ。
しかしこの感じ、簡単にしゃべりそうもない。
自分をとてつもない王女様だと信じ込んでいる少女が、病院の場所をしゃべるとは思えない。
でも、手はあるかもしれない。
あえて話に乗ってみれば、彼女は僕をどこかに連れて行こうとするだろう。
狭い病院で暮らしていた彼女がそれほど広い世界を知っているとは思えない。自然と病院の場所近くに僕を導くかもしれない。そこで、親父と連絡を取り合って、さりげなくその近辺の病院や警察に問い合わせてみる。
この手は、上手くいきそうだ。
「分かった、分かったよ、じゃあ、その、君はこれから具体的にどこに向かおうとしているんだい?」
僕が問うと、彼女は怪訝そうな顔をして首をかしげた。
「エミリア王国、私の国に一旦帰るのです」
「どうやって」
「……エミリア王国なのですからそれはもちろん――」
その時、家の情報端末の着信アラームが鳴り、みんなびくりと顔を上げたため、話の腰が折れる。
親父があわてて電話電話とつぶやきながら受話に向かう。リビングには僕とセレーナだけが残った。
「――ふう、お父様が戻るまで待ちましょう。あなた、ジュンイチっていうのね。よろしく。ただ、初めて会った身分の分からない相手を突然ファーストネームで呼ぶのはさすがに不躾ではなくて?」
二人だけになると、彼女は突然そう言って僕を睨み付けた。あぁ、さっきのむっとした表情はそのことでしたか。
「すみませんでしたね、セレーナ・グリゼルダ、……えーと」
そっちはファーストネームでおとがめなしなのかよ、とさすがに腹立ちを隠せない。
「グッリェルミネッティ! 人の名前くらい一度で覚えなさい!」
セレーナは腰に手を当てて頭ごなしに怒鳴りつける。
「無理だよ、なんだよ、グッリェ……その、なんとかって」
「馬鹿にしてる? 伝統あるエミリア王家を!」
あぁ、そういう設定でしたね。
「君にとっては伝統ある王家でも僕は聞いたことも無いの!」
妖精さんと口論してもしょうがないのにな、と思うけど、思わず。
「じゃ、しばらくは私の基準に合わせてもらいます」
そのひどい言い様にさらに言い返そうとしたとき、親父が戻ってきた。
何やらそわそわとしていて、挙動不審だ。
「えーと、王女様のお名前は、セレーナ・グリゼルダ・グッリェルミネッティで、エミリア王国の王女様、ってことでよかったでしたかな……」
と、いつになく親父がおどおどとしながらセレーナに尋ねる。
「ええ。お父様は息子さんとは違って、人の名前をすぐに覚えられるのですね」
彼女は笑顔でちくりと僕に対する皮肉を混ぜたが、お構いなしに親父は言葉を継いだ。
「その……エミリア王家の摂政様の部下だという人からの電話で……殿下がうちにいるなら引き留めておいてくれって……」
親父の言葉を聴いた瞬間にセレーナの顔色が真っ青に変わった。
「あいつめ……! こんなところまで見てるの!? ……ジュンイチ、ひょっとして、玄関のIDスキャン、オフにしてなかったの!?」
僕は首を横に振る。どの家にも、誰が出入りしたかの記録を取るためのスキャナーが玄関にある。入退室記録は、万一の犯罪の時には警察が閲覧できるようにはなっているが、……まさか。
「言ったじゃない! あいつら、私のID記録追跡できるんだって!」
えぇー。本当かよ。いや、ちょっと待って、じゃ、今までのおとぎ話も全部?
「あーもう……私もアンチスキャン取り付け忘れてたのはうっかりしてたけど……ちょっとは察しなさいよ」
「無茶言うなよ、あんな話を最初から真に受けるなんて無理だよ」
「はぁ? じゃ、私の話、これっぽっちも信じてなかったってわけ?」
彼女は、お怒りの表情をまったく隠しもせず、両手を腰に当てたまま僕に詰め寄ってくる。
「でも、待ってよ、追っ手は君の国の摂政なんだろ? どうせ国に帰るんなら――」
「ここで王家の勢力争いの講義からしなきゃなんない? ほんとにガキね」
年上(たぶん)の僕に向かってガキとはなんだ、ガキとは。
「お父様、お知らせありがとう! ごめんなさい、すぐ行かなきゃ!」
と、僕が言い返そうとするのをさえぎるようにセレーナは親父に向けて言い、駆け出そうとする。
なんか、いくらなんでも自分勝手だ。
勝手に人の家に案内させといて罵倒するだけして去っていくって?
自分の国の摂政から逃げ回らなきゃならないような情けない王女様が?
いらいらする。
むかむかする。
何より、この僕に、役立たずの烙印を一方的に焼き付けて逃げ去ろうとするのが、腹が立つ。
僕は、わざと憤然の表情を見せ、セレーナの通り道をふさぐように、一歩、横に踏み出した。
「……待って、分かったよ。君が本当に困っているんなら、僕のIDでいいなら協力する」
「なによ、突然の宗旨替え?」
「セレーナ(かまうもんか、これからもこう呼び捨てにしてやる)、君の話を信じてなかったのは事実で、それで君が面倒な立場になったんだったら、僕にも責任がある。いくらガキでもそのくらいの分別はある」
僕を睨み付けていたセレーナは、少しため息をついて表情を緩めた。
「……多少は紳士らしいところもあるってわけ。それじゃ、行きましょう。お父様、そういうわけですので、しばらくジュンイチさんをお借りしますわ」
親父は、おう、いってらっしゃい、と近所のマーケットに買い物に行くのを見送るように僕らを送り出した。
少なくとも相手が本物の王女らしいと分かったのに、まったく、何を考えているのかは分からないけれど。
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