第五章 真実(1)
■第五章 真実
とてもいやな夢を見ていた。何がいやなのかはまったく思い出せなかった。
ただ、いやな夢だった、という粘っこい感覚だけが残っていた。
そして今見ていたのが夢だとすれば、僕は眠っていたのだろう。
無機質な壁に戸棚とスライドドアが見える。前も後ろも上も下も壁だ。
上も下も、と思考で言葉にしてから気づいたが、上と下の区別が付かない。
無重力。
僕は、壁に縫い付けられた寝袋のようなベッドの中に体を収めていた。
身じろぎしようとして、左腕に細い管が付いていることに気がつく。その管の先は途中で二回ほどとぐろを巻いた末、脇に固定された小さな機械の中に消えている。機械の透明なプラスチックケースの中で、何かが規則的に回っている。
僕の体基準で右上方にあった小さなパネルが灯り、声が聞こえてきた。
『ジュンイチ様、お目覚めですか』
知らない顔が映っている。
「はい」
まだぼんやりしていたが、質問に短く答えた。
『大きな怪我はありませんが、しばらくは動かないでください。大変失礼ながらモニターをさせていただいておりましたが、これからは、御用があれば、手元のボタンを押してお命じくださればすぐに手配いたします』
パネルに映っている人物をもう一度じっくりと観察する。首元に白い襟が見えるところを見ると、医者のように見える。つまり、僕は何か怪我か病気かでこの病室に運び込まれ、眠っていたことになる。
「あ、あの、セレーナ……殿下は」
徐々に自分の状況を思い出し、セレーナを呼び捨てることを寸前で避けた。
『ご自分の船室に。お呼びいたしましょう、ご心配でいらっしゃいましたから』
「あ、はい」
うまく言葉が口から出てこない。ひとまずセレーナが無事らしいことにほっとした。
しばらく、時間にして三十分ぐらい、待っただろうか。小さな呼び鈴の音がして、僕の返事を待たずにドアが開いた。
入ってきたのは、怒りとも悲しみともつかない表情をしたセレーナだった。
「ほんっとに、馬鹿ね」
僕のそばに来るなり、彼女はそう言った。
「カノンの加速が始まるってのに飛び出していって。加速で壁に叩きつけられたのよ」
続けて、僕に起こったことを簡単に説明してくれた。
「そうだったのか……また迷惑かけた。ごめん」
僕はいたたまれず、目をそらす。
「いいわ。あなたの考え無しは今に始まったことじゃないから。私はこの通り無事だし」
「どうして?」
僕と一緒だったならどうして彼女は無事だったんだろう。
「途中で加速開始のアラームが聞こえたから、すぐにそばの船室に入ったのよ。聞こえてなかったの?」
確かに一度は、もうすぐカノン発射と言うアナウンスを聞いた。しかし、その後は聞いた記憶が無い。
「うん、聞いていなかったみたいだ。あわてていて」
言われてみれば通路を急いで飛ぶ間、周囲が何か騒がしかったイメージだけが残っている。
「言ったでしょ。あわてるようなことじゃないの。もし彼らの本意が私の拉致ならとっくに手遅れなんだし」
彼女の言葉を聞いて、そうだ、僕があわてていたのは、そのためだった、と思い出した。
「そ、それで、結局、それは分かったの?」
「これが罠かどうか? そんなこと面と向かって訊けるわけがないじゃない。今のところ旅は快適だし、とりあえず言うところは無いわ」
「……僕はどのくらい?」
「丸二日眠っていたわ。大きな船だからペースは遅いけど、もうすぐエディンバラよ」
セレーナの言葉に、僕はショックを受ける。
結局、何かできるかもしれなかった二日を、僕の不注意で眠って過ごしてしまった。
セレーナが、僕を怒鳴りつけるでもなく優しく気遣ってくれることが、逆に苦しい。
ベッドから這い出ようとして、右肩がひどく痛むことに気がつく。
「動かない。着陸したら、ちゃんとした病院で診てもらえるようにお願いしてあるわ。それまでおとなしくしてなさい」
「だけど、それじゃ……」
「とにかく入院するの。いい? あなただけは病院からうまく逃がしてあげる。そのためにしばらくはおとなしく従って。もし何かあっても、私ならうまく立ち回れる自信はあるから」
彼女にそう言われたのは二度目だった。
一度目は僕はなんと答えたんだったか。
そう、一緒に逃げよう、と答えたんだ。
今思えば、あの時は軽い気持ちだった。
家出の延長で十分だと思う気持ちがどこかにあったから。
もう一度、一緒に逃げよう、と告げたい。
けれど、今回は、違う。
もしこれがロックウェル連合国の罠だとしたら、逃亡に失敗したときには、それなりのペナルティがあることを覚悟しなくちゃならない。
僕は足手まといでしかない。僕がいないほうが、彼女はうまく切り抜けられると思う。
だからといって、彼女一人にすべてを押し付けて逃げるのか?
そしてそれはたぶん、彼女との永遠の別れ。
「……分かったわね。また、来るわ。お休み」
僕の沈黙を肯定ととらえたのか、セレーナはそう言って病室を出て行った。
***
長い眠りの中で見ていた夢の内容を、いまさらながら思い出した。
僕は、セレーナと一緒にいた。
僕らは、当たり前のように一緒にいた。
永遠を誓い合った二人のように。
緑の芝生、水色の空、ピンクの花――そんなものが視界を覆っている場所に座って、何かを語らい合っていた。楽しかった。
顔の見えない影のような男が現れた。
その男は、セレーナの腕を掴んだ。強引に引きずり、立たせた。
彼女が僕に見せた顔は困惑だった。
男は掴んだ腕を引き、セレーナを連れて行こうとした。
セレーナの口が動き、僕に何かを訴えかけた。
僕は立つことさえしなかった。
最後に、悲しそうな顔をしたまま、セレーナは白いもやの中に姿を消していった。
とても、いやな気分だった。
***
なにか、頭にかっと上るものを感じた。
衝き上げてくる衝動に、僕はいてもたってもいられなくなった。
「誰か、いる?」
僕は手元のボタンを押して叫んだ。
『はい、こちらに』
先ほどの船医がパネルに現れた。
「この点滴を外して。自分で歩けるから、トイレにも自分で行く。次の食事から普通の食事を」
『王女殿下より、安静にとのご指示をいただいておりますので』
彼は軽く目を伏せながらそう言ったが、僕は引かなかった。
「誰の指示だって? 僕は僕だ! エミリア王国の小娘なんぞの命令には従わないぞ」
『そ、その、言葉をお慎み……』
パネルの中で彼は両手を空中であわあわと振り回すが、
「うるさい! 僕は地球の新連合市民で、新連合の主権者だ! 王位にも無いよそ者の娘がこの僕に命令だって? あなたが認めても僕は認めない!」
『小娘とは、言ってくれたわね!』
突然別の声が響いてきた。紛れも無く、セレーナの声だった。
『あなたの具合が心配でドクターのところに立ち寄っていたのよ! この王女たる私にそこまでの気遣いをさせておいて、大層な物言いね!』
パネルに顔は映らないが、これはずいぶんとご立腹のようだ。
構わない。
これから、大喧嘩をする覚悟なんだ。
「気遣いしろと言った覚えも無いけれどね!」
『怪我で寝込んでいる人間を心配して何がおかしいのよ! 私が寝てろって言ってるんだから寝てなさい!』
「だったら言わせてもらう! この僕に対して、君が自由を奪ったり与えたりする権利は無いってこと!」
『私に……!』
彼女は言いかけて、黙った。
たっぷり五秒。
『もういい! そのまま起き上がって頭でもぶつけて死ぬがいいわ! ドクター、もうかまわないから、あの男を放り出して!』
そうして彼女の声が消え、彼女が船医のいる部屋を出て行った気配だけが聞こえた。
「そういうわけなんで。いろいろと外してもらっていいですか」
落ち着いた声で僕が言いなおすと、船医も了承し、その五分後には船医と助手がやってきてもろもろの管を僕の体から取り外した。
ベッドから出る。右肩と右側頭部がひどく痛むものの、それを除けば不調は無い。確かに、めまいがするかどうかくらいは重力のある地上で確認すべきだっただろうが、僕にだって意地がある。船医にお礼を言って、僕はその部屋を辞し、セレーナがいるであろうスイートルームに向かった。
長い道のりを今度は落ち着いて進み、なつかしのスイートルームの扉を開けると、果たして、セレーナは目の前のリビングのソファで擬似重力に身を任せて腕組みしていた。
「……ただいま」
僕が言うと、彼女はいつもの憤まんの顔で僕を睨んだ。
「あなたの言いたいことは分かった。私に助けられて一人で逃げるのが嫌だとか、どうせそんなことなんでしょう。何の力も無いくせに、この私を助けるだとか粋がってるんでしょう。これだからガキは嫌いよ」
彼女は一息に僕を罵った。まったくもってその通りで、訂正するところは唯の一つも無い。
「そうとも。僕は子供だ。君に比べれば情けなくなるほど、何もできない子供だ。だから言わせてもらうぞ。僕は君の足手まといになったって君についていく。何もせずに君を奪われるなんてごめんだ。僕は僕のために君を助けると決めた。君が迷惑がろうと知ったことか。君はちょっと高慢なだけの小さな女の子で僕は知恵は無くとも力のある男だ。だから男が女の子を助けるのは当たり前だろう。そんな当たり前のことをする自由を僕から奪い、僕にとって何の価値も無い自由を僕に与える、そんな権利は君には無いぞ。たとえ君がエミリア王女だとしてもだ!」
彼女に割り込まれないよう、僕も一息で言い切った。
さあ、これだけの大見得を切ったんだ。彼女からの反応はどれほどの爆弾となることか。
だけど。
「私を奪われたくない? あなた、私の恋人気取り?」
こ、恋人?
返ってきた爆弾は、僕の想像したものではなく、しかもその威力も大したものだった。
少なくとも、どんな爆弾でもはねつけるぞ、と身構えていた僕に対して、数秒間は顔を真っ赤にさせ、言葉を失わせたのだから。
そういうわけじゃないんだけど……ああ、だめだ、これは何を言っても泥沼だ。
「そ、そんなつもりじゃ……」
思わず言葉を濁すと、ここぞとばかりにセレーナが反撃してきた。
「あなたがそう思ってるのと同じに、いやそれ以上に、私はあなたを守らなくちゃならないと思ってるの。分かる? あなた、どうしてこんな宇宙の果てにいるの? 私が勝手なわがままで地球へ行って、道を歩いていたあなたを強引に捕まえて、またもや勝手なわがままを言ってこんなところまで連れてきたからでしょう? 王族だのなんだの抜きにして、これで私がどれだけの責任を感じてるか、わかんない?」
今度はセレーナがまくし立てる。
だけど、この反撃は、完全に僕の想定範囲内だ。
「うん、全くその通りだ。だったら、巻き込まれた僕の気持ちを優先すべきだ。ここまで巻き込まれて、何もせずに去れ、なんて、ひどい話じゃないか。最後まで付き合わせてもらう」
「でもあなたは地球で平和に暮らす権利がある」
「それと同時に、か弱い女の子を守る権利もね」
「私がか弱い? 呆れた」
セレーナはため息をついた。
彼女は首を何度か横に振ったが、何も言うことがなさそうなので、僕は口を開いた。
「考えたんだよ。僕らにできることは、ともかく、知ることと考えることだ。この旅行は罠かもしれないしそうじゃないかもしれない。きっと事態はどんどん変わる。そんなとき、僕らはとにかくいち早く知り、考えなきゃならない。君とジーニー・ルカ、そこに僕の脳髄を一つ付け足すんだ。考える脳が一つ増えればそれだけ僕らは有利になる。そう思わないか」
僕が言うと、セレーナはソファからじっと僕を見上げながら、
「……ま、あなたの頭脳は、きっと、大したものよ。使い方を多少間違えているみたいだけどね」
それから、ふう、ともう一度ため息をつき、ソファの隣の席を左手でぽんぽんと叩いた。意味が分からずに見ていると、今度は強くソファ面をバシンと強くたたき、ぐいっと指差す。
あ、座れということか。
僕が座ると、セレーナは僕の顔を見もせず、
「同じことを考えていたの。つまり、私にできることは知ることと考えること。私はそれを一人でやろうと思ってたわ。でも、ジュンイチ、あなたがそれに参加したいと言うなら、歓迎する。考えることが唯一の武器なら、まずは手持ちの武器を増やさなきゃ」
僕をそばに置いて、一緒に戦ってくれる、と。
ほんのわずかでも僕を頼りにしてくれる、と。
それは嬉しい言葉だった。
彼女の左の二の腕に僕の右ひじがかすかに触れ、さっきの言葉を思い出して少しどきっとする。確かに、こんなかわいい子が恋人だったらどんなに素敵だろう、とは思う。
けれど僕にとってセレーナは、あるいはセレーナにとって僕は、きっとそんな対象じゃない。生きてきた世界と持っているものが違いすぎて。
でも、そんな関係よりももっと大切なもの。そう、今や僕と彼女は――。
「――それじゃ、これで僕らは戦友だ。まず、彼らが何を考えているかをできるだけ早く多く知り、それから考えるんだ」
「それは私が言ったことじゃなかったかしら? それも聞かずに暴走して、最後は事故でこんなひどい怪我をしたのは誰かしら」
セレーナはそういいながら左肩で僕の右肩をごつんと小突いた。ほとばしる痛みに、んぐぐとかなんとか、変な声が出てしまっていたと思う。
「そうだったかな、覚えがないよ」
僕は空とぼけて、さらに襲ってきた二度目の小突きを避けてソファの左に体を倒した。
「僕は考えたんだ。もし彼らが君の身柄に興味があるなら、ともかくエミリアという国と関わりがないはずが無い。たとえば、君の身柄を人質にして彼らがエミリアから引き出したいものがあるとしたら、なんだと思う?」
僕が倒れたままの姿勢でつぶやくように言うと、
「そうね、まあ、心当たりは山ほどあるけれど」
「けれど、王女を人質にして、つまり、テロリズムでその条件を引き出したとなれば、国際的な立場はまずいことになるだろ?」
彼女は初めて僕の方に顔を向け、驚いたような目で僕を見下ろす。
「あなたからそんなまともな言葉が聞けるとは思わなかった。その通りよ」
ちょっと馬鹿にされすぎじゃないかという気はしないでもないけど。
「だったら、君が人質だったということを一切匂わせずに、彼らがより大きな利権を得るような理屈を組み立てているはずだ。もしそれが分かれば、それを内側からぶち壊しにしてやればいい」
「そうね……」
セレーナは考え込んだ。もちろん僕も考えている。
「商人としての常識に従って動いてくれていればいいけれど。彼らの考えは時々ひどく常識を外すことがあって良く分からないのよ」
それだったら僕も聞いたことがある。商社を母体とした連合国。すべての国が大株主に選出される上院と一般選挙で選ばれる下院の二院制。各国商社の筆頭株主は『連合議会』という法人だが、連合議会そのものも各国の代表から構成される。意思決定の中心が不明瞭な連合国家、教科書通りにそらんじれば、こういう国だ。
しかし、彼らが何かをたくらんでいるにしても何らかの理屈が必要なはずで、その理屈を通らなくしてやればいい。簡単じゃないとは思うが、幸い、僕らにはジーニー・ルカがいる。
彼はセレーナの命令に従ってあらゆる情報を操作する。不正な手段で僕のIDに不相応な権限を付与したり、さも昔からあの船が僕の持ち物だったかのようなインチキをやってのける、大した悪党なのだ。単にジーニー・ルカを通して事前にエミリア本国に警告を発することだって、十分な対抗手段になりうるだろう。僕らの最大の武器は、実のところ僕やセレーナのささやかな頭脳ではなく、魔法の絨毯に乗った頼れる魔人なのだ。
ともかく、考える時間だけはまだたっぷりある。
ちょっと休憩にしないか、と持ちかけると、彼女もそれに賛成し、給仕を呼んでお茶の準備を整えさせた。
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