第四章 拉致(3)
晩餐会が終わって僕らが通された部屋は、これまた絢爛豪華と表現するしかなかった。大きな白い両開きの扉を開けると、正面にはソファーセットとガラスのテーブル、広い窓際に大きな執務机。右側の壁にもまた扉があり、その向こうに五人くらい並んで寝られるんじゃないかという大きなベッド、ベッドサイドにも透明な天板のデスクがあり、右側のすりガラスの扉の向こうは洗面エリアで、シャワーとバスタブつきの風呂が二つもあるというさまだった。
こんな場所に一人で通されてさすがに落ち着かず、眠くなるまでリビングのソファに腰掛けて、壁のパネルに適当なビデオでも流して観てるか、なんて思っているところに、来客を知らせる呼び鈴があった。
来客者をモニターで確認すると、予想通りというか、セレーナだった。
扉を開けると彼女は何も言わずにずかずかと部屋の中に入ってきて、ソファにどさっと音を立てて座った。
どうにもその表情は、固い、というか、仏頂面というか、にしか見えない。
「えーと、ようこそ……?」
僕は何を言えばいいのか分からず、とりあえずの挨拶。
「あなた、さっきの何? 国際関係とかってもんが分かってないんなら余計なこと言わないでくれる?」
セレーナは僕の挨拶を無視して、眉を吊り上げ、じろっと僕を睨み上げながら、そう言った。
「国同士の関係で、軍事に関するものなんで一番繊細な話題なのよ。いくらあなたが無知だからって、あんなことを何も考えずに口にするなんて許せない」
「そ、そんな言い方ないだろ、彼だって気にしてなさそうだったし……」
「彼の態度がそう見えたって、そのうちあの話にいろんな尾ひれが付いて一人歩きすることもあるのよ! ……ったく、どうして私、こんなのと一緒に歩いてるんだろ」
はぁっ、と彼女は大きなため息をついた。
そりゃ、僕だって不注意だったかもしれないけれど、ここまで言われるほどのことかな。彼女の中ではそうなのかもしれないけれど、国同士の立場だからって軽口冗談が許されないってことも無いだろうに。ちょっと固く考えすぎてるんじゃないのか、この王女様は。
とは思うものの、追放されてもなおそこまで気を遣わなければならない彼女の立場にも同情する。ただでさえ、彼女が追放されているなんていう状況なのに、余計な波風は立てたくないだろう、と思う。
いろんな買い言葉が浮かんだが、そんな彼女の立場を思ってそれらをすべて飲み込み、僕が舌に乗せたのは、
「……ごめん」
の一語だけだった。
彼女はしばらく鬼の形相で僕を見ているだけで、一方の僕もそんな彼女を見ているだけで、長い時間が過ぎた。
いよいよ何か追加で弁明しなきゃならないか、と思い始めた頃だった。
「ま、分かればいいわ。気をつけるのよ」
彼女はもう一度ため息をつきながらあっさりとそう言った。
「それで、あなたはどうするつもり?」
「何を?」
目的語をはっきりと言わない彼女に思わず訊き返す。
「彼が言ったでしょう、エディンバラよ。あなたはあまり乗り気じゃないみたいだけれど」
「ぼ、僕が?」
「そうよ、前にもエディンバラ行きは反対みたいだったし、今回もあいまいに返事しただけで」
そうか、そんな風に彼女は受け取ったのか。
「行ってみてもいいと思うのよ、あなたのIDに移された無茶な特権を使わずにエディンバラの資料を見られるわけでしょう?」
確かにその通りだ。前に僕がしり込みした理由は、まさにその点だったわけで、彼らの提案はその問題を一挙に解決してくれるわけだから。
「でも、君は良いのかい、その、そんなところにのこのこと行ったら国同士の話に」
面倒な国同士の話、そして、彼らが親切心か恩の売りつけかでセレーナの所在をエミリアに教えてしまうかもしれない。
「もちろん、お忍びだってことは念を押すけどね、それよりも」
彼女は僕をじっと見つめ、それから目をそらす。
「結局のところ、断れないわよ」
「えっ?」
僕は驚いて訊き返す。
そりゃ、行きたいと言えば行きたいけれど、いろいろと難しい関係のロックウェルの招待、ほいほいと応じて借りを作れないだろうに、断れないって、どういうことだろう?
「……お忍びじゃないのよ、結局。彼らは、公式に私を歓待した。たくさんの高官のいる中で、ね。ここで彼らの厚意を断ることこそ、本当に国際問題になりかねないわけ。……次の王になる私に、負い目を背負わせたいのよ」
「断っても……断らなくても?」
「そうね。まあ見つかっちゃったならしょうがないわ。そういうもんよ、お忍びの家出なんて」
僕は思わずため息をつく。
なんだ、やっぱり拉致じゃないか、これ。
あそこで黒服に囲まれたときの直感は、正しくこれからを見抜いていたということだ。
「なんか……僕のせいで面倒なことになっちゃった……のかな」
「あら、責任感じてくれてるの? ふん、あなたにしちゃ殊勝じゃない」
彼女は、少し自嘲的な笑みを漏らした。
「あなたは底抜けの馬鹿で後先考えてないし政治のこともからっきしで頼りないし。だけど……あなたをエミリアでひどい目に遭わせたのは私だから」
彼女は少しうつむき加減で、そんなことを言い、続ける。
「あなたみたいな馬鹿に振り回されるくらいが、私にはちょうどいい罰みたいなもんよ」
「僕に付き合うことが罰扱いかよ」
相当にひどい言われようなのにもかかわらずセレーナの優しい心遣いに気づいて、僕は笑顔で返す。
「そうよ。王族は誰にも罰せられないから自らを常に省みて罰する必要があるのよ」
それから彼女はにやっと笑って付け加えた。
「それに、あの摂政も、エミリアって言う国も、ね。わざとロックウェルに些細な借りを作って、後で貴族どもを困らせるのも、ふん、面白いわね。ここいらでちょっとした意趣返しを仕込んどきましょ」
彼女のいたずらっぽい笑いに、僕も思わずつられて笑った。
「それにもしかすると本当に目的のものが見つかるかもしれないし」
「必ず見つけるのよ。弱気にならない」
「そうだね。もし見つけられれば、君は大きな顔をして国に帰れるんだ」
僕が言うと、セレーナは何度かうなずいた。
言うべきことも言ったし決めるべきことも決め、すっきりした、と大きな伸びをしてセレーナが出ていき、僕も急に眠くなって初めてのふかふかベッドにもぐりこむと、驚くことに一瞬で意識はどこかへと飛んで行ったことを翌朝に知ることになった。
***
翌日も朝から豪華な食事攻めにあい、それが終わってから、僕らは、エディンバラに行くことを告げた。
それを聞いた担当者は喜んで上に伝え、最終的にランチ直前に少しだけ時間のできたレナルドが直接僕らに会いに来て、申し出を受けてくれてありがとう、と逆に礼を言われたものだ。
僕らの船で行くのではなく、彼らが客船を準備し、僕らの船もそれに積み込んで行くという話になっていて、そのための客船の準備にもう一日待たされることになった。
もう一回の小規模だけれど豪華な晩餐会(その時には僕もフォーマルを仕立ててもらってそれなりの姿だった)を経て、翌日の昼前に出発。
前と同じように大きな黒い車に乗せられて、到着したのは宇宙港だった。そこには、シャトルを宇宙に打ち出す地上カノンもあったが、僕らが乗るべき大型客船は、セレーナの船と同じ、マジック推進船だった。
その大きさは目を見張るほどで、後から聞いたところによると、全長は三百メートルに近いそうだ。セレーナをして、これだけの規模のマジック推進船は見たことがないと言わしめるものだった。
実のところ、マジックの研究はエミリアよりもロックウェルの方が進んでいるのかもしれない。
その船の大きな格納庫には僕らの宇宙船がすでに据えられていた。
迎賓館で通された豪華な客室をそのまま縮小したような船室が、僕らにはあてがわれた。スイートルームはあいにく一室だけなので、ということで、セレーナにはスイート、僕はその隣のデラックスが割り当てられた。
僕らが乗り込み、三十分もすると発進のアナウンスがあった。そのアナウンスがあったときは、僕はセレーナのスイートを訪ねて豪華な内装を堪能しているときだった。
聞きなれたマジック機関の唸りをもっと低くした音が遠くから聞こえ、加速を少しだけ感じたかと思うと、あっという間に船内は無重力になっていた。
しばらく後、おそらく宇宙にもう飛び出したろう、という頃に、ほんのわずかに床方向に重力を感じるようになる。どうやら、ゆっくりとした回転でわずかではあるものの重力を模擬しているようだった。そんなかすかな重力の特権があるのも、スイートルームとその周辺の施設だけなのだった。
僕とセレーナは早速船内の探検に踏み出した。スイートルームを出ると、廊下が船の前後方向に貫きその果てはほとんど見えず、その廊下の両脇に客室がならんでいる。
何か所かがT字路になっていて、曲がるとすぐに階段とエレベータがある。これで上の階に向かうようだ。しかし、その階段を上へ向かって歩き始めるとすぐにどちらが上なのかを忘れ、いつの間にか体は浮いている。船の中心軸に近い階層で擬似重力が消えているわけだ。この階層には低級クラスの部屋があり、こうした階層が三層あることが分かった。
地上停泊位置を基準にした最上階はホールやレストランや売店が集まった共用スペースになっていて、ここで重力は完全に反転していた。ここに重力があるのは地上と同じ作法で乾杯と飲食を楽しむためなのだ。
「見て、ジュンイチ、この船、ダンスホールまであるわ」
そんな中で一画の、ただ広くて、なんだか変な棒だのひもだのが並べ立てられた部屋をみて、セレーナが言う。
「ダンスホール?」
「ええ、そうよ。宇宙でダンスを踊るための特別な仕掛けがあるからすぐに分かるの」
「無重力で?」
まったく、こんなに体がふわふわとする中でダンスだなんて全く想像もつかない。
「宇宙国家間の社交界で生きていくためには、微小重力ダンスは必修科目よ。軌道上の客船内で外交儀礼を交わすことだって多いんだから」
そう言って、セレーナは僕の手を取り、そのホールに引っ張り込んだ。
「こうするのよ」
そういってセレーナは床をとん、と軽く蹴って空中に飛翔すると、天井に目立たぬよう並べられている取っ手のようなものに軽く触れ、すると途端に体の向きはくるりと回転して、と思うと、まるで空中でステップを踏むように、突き出た虹色の棒の間を三拍子で飛び、優雅なターンを決めて僕のところに戻ってくる。
「ほら!」
と僕の手を引っ張り、僕を空中に投げ出す。
あわてて両手をバタバタさせ、かろうじて近くにあった赤い棒を右手にとって体を止めた。
セレーナはもう僕の目の前にいて、反対側の手を取るとさらに別の方向にふわりと投げる。
次は多少落ち着いて今度は左手で青い棒をつかみ、予想通りに飛んできたセレーナを受け止める。彼女の腰に回した腕が、そのあまりに細いのを感知し、僕の鼓動を上げる。
すぐに彼女が僕の右手をとって脇にもぐりこむしぐさ。察して右手を持ち上げて彼女のターンをサポートしてみた。
「そうそう、上手いじゃない」
言われて調子に乗って、今度は彼女の手を取ってふわっと投げた、つもりが力が入りすぎて彼女も僕もあらぬ方向に飛んでしまい、それぞれ違う色の棒にぶつかって止まる。
「ったた、ちょっと褒めるとすぐ図に乗るんだから」
思わず首をすくめたが、セレーナが笑顔なのを見て彼女が怒っていないと分かり、ほっとした。と同時に、彼女が僕の馬鹿なチャレンジを楽しんでくれたことにうれしくもなった。
でもそこからは、やはり経験者の彼女のエスコートに任せることにした。
小一時間練習した末に、僕を一角としたワルツダンスを彼女が華麗に舞う程度にまで上達した。
僕も小さなワルツステップで小刻みに位置を変え、息を合わせて不規則な軌跡を演出する程度の役割も果たせるようになっていた。
ふう、と息を吐いて、セレーナは少し上気した顔にうっすらと汗を浮かばせながら、
「楽しかった。久々にこんなところで踊れたから」
備え付けのタオルで軽く顔を押さえている。
「僕も、なんだかよく分からないけど楽しかったよ。社交ダンスなんて何が面白いんだろうと思っていたけど」
偽らざるところを口にし、僕は両手に持ったタオルで顔と首筋をこすった。
「ちょっとできちゃうと、もう少し上手にとかかっこよくとかできそうな気がするんだよね。到底無理だろうけど」
セレーナみたいに踊れるようには、きっとなれないだろうな。
「ダンスが飽きないのはそんなところよ」
そして、もう一踊りする? と彼女が言ったところで、船内放送で、間もなくカノンジャンプのために疑似重力を停止する、とアナウンスがあり、さらなる練習をあきらめて僕らはスイートルームに戻ることにした。
戻る道すがら、僕はふと気になっていたことを訊いてみた。
「そう言えばさ、こうやって下にも置かれぬ歓待を受けているわけじゃないか。お忍びの家出なんてそんなものだ、なんて言ってたけど。よくあるんだ?」
「そうね、よくある、ってことはないわ」
そう言って、セレーナは、うーん、と考え込む。
「事前予告しての訪問なら当たり前の歓迎だけどね。特にトライジュエルは金融大国だから、お金は持ってるし。だけど、全く予告無しで、ってことは、今までに、そう、一度だけね」
「それは、今回みたいに家出して適当な惑星を飛び回ってて身分に気づかれて、っていう?」
「そうね。まあ家出中でも普通は、船で寝るのに飽きて手近な惑星で宿を取ろうとしたときには、これから行きますけどお構いなく、くらいの連絡はするんだけど。そのときはくさくさしちゃってて連絡サボって。街で適当なホテルに入ってフロントでID見せたらその星の外交官がすっ飛んできて。あのあわてた顔ったらなかったわ」
そう言って彼女はくすくすと笑った。
「ま、大国の王女様を安宿に泊まらせたなんて知られたら、その外交官の首も怪しいところだね」
「こっちは気にもしないのにね、あの汗びっしょりのスーツ姿は忘れられないわ。おかげでくさくさは吹っ飛んじゃったけどね」
そう考えれば、後々にどんな面倒が起るか分からないなら、あの必死の歓迎の理由も分からないでもない。でも、あれ?
「そう言えば、今回、君のIDをどこかで見せたっけ?」
「……え? 言われてみればそうね……」
僕の何気ない問いに、彼女の笑顔は少しこわばる。
そこで僕はさらに思い出した。
彼女のIDに起こっていること。
彼女の宇宙船に起こってること。
「そうだよ、君のIDは無効になってる。船の操縦者証には僕のIDをずっと使っていたし、船の持ち主も僕に書き換えて……」
「……待ってよ、トライジュエルの人たちが、この船に私が乗ってるってことに気づけるわけがないじゃない?」
セレーナが結論を付け加えたことで、僕はぞっとした。
いけない。
彼らがなぜセレーナのことを知っているのか?
王女用とは言え機体そのものは一般の小型マジック船。
しかも、とるに足らぬ地球人の所有になっている。
それを、エミリア王国王女と結びつける唯一のよすがは、『ID』でしかないはずなんだ。
そのIDは、まさに無効になっている。
なのに彼らがセレーナの搭乗を知っている。
それはつまり。
彼らは、僕らの知らない方法で僕らを追跡していた。
そうとしか思えない。
思い返せば、最後に彼女がIDを使ったのは、アンビリアの案内所。あそこで、身分停止エラーを返されたのだ。
ロックウェルの影響下にあるとはいえ、単なる身分エラーの一つまで報告する義務がアンビリアにあるとは思えない。
しかし、あらかじめロックウェル連合国がアンビリアを含めた影響国中に網を張っていたと考えたら。そこからずっとこの船を追跡していたのだとしたら。
オウミでの駐車違反騒ぎも、もしかするとこの船に彼女が乗っていることを確認するためだったかもしれない。わざと駐機場情報に紛れを作ってあそこに誘導して。
そこから途切れなく執拗に行動を監視していたのかもしれない。
考えたくもないが、もしかするととんでもない陰謀が?
その陰謀の目的は分からない。
だけど、今、こうして、セレーナは彼らの用意した船にまんまと閉じ込められている。
ちょっと貸しを作る、程度じゃすまない、とんでもない陰謀がある。
でなければ、ロックウェル中に網を張り巡らせ、わずかなヒントからセレーナを見つけ出す、なんて芸当をやろうなんて思わない。
しかも、彼女がいつものちょっとした家出ではなく、身分を停止されエミリア本国からも追跡できない状態――つまり何かあっても救助できない状態だ――ということさえ掴んでいるということだ。
何てことだ。
僕は大変な間違いを犯した。
僕の浅はかな判断で、王女を無援の囚われにしてしまったのだ。
「……こんな船には過去にも乗ったことがあるんだろう? 格納庫に行く方法は分かる?」
僕は、青い顔をしているセレーナに尋ねた。僕の問いに、セレーナも、僕が考えていることを察したらしい。
が、答えは。
「いいえ、こういう船は、宇宙を航行中は格納庫には入れないわ。私たちが宇宙船を取り返して逃げ出すことは、無理」
「ジーニー・ルカ! この船もそうかい?」
セレーナのリボンを通して聞いているはずのジーニー・ルカに向かって僕は叫んだ。
「……ええ、そうよ」
ややあって、セレーナはジーニー・ルカの代わりにゆっくりと答えた。
「それでも、可能性はあるだろう、ジーニー・ルカ、格納庫への道案内をしてほしい」
僕が言うと、すぐにセレーナが一方を指差した。それは僕らのスイートルームのある下層へ向かう道。
いつの間にか擬似重力は完全に消え、無重力の中を僕らは突進した。スイートルームのある最下層よりもさらに下に向けて階段ホールが突き抜けていて、どうやらその先が格納庫スペースだ。
途中でカノン発射が間もなくと言うアナウンスが聞こえるが、僕はそれを無視した。
たどり着いた袋小路は、縦横四~五メートルの部屋に二つの大きなハッチがあるに過ぎず、それらのハッチは強力にロックされていた。
「引っ張って開くようなものじゃないわ」
ハッチのノブを持ってねじったり引っ張ったりを試す僕に、セレーナが言った。
「少なくとも、そのハッチの先を与圧しなきゃ進めない。でもその与圧のための制御盤がここに無い以上、私たちにできることは無いわ」
「じゃあ制御盤を奪いに行こう」
「無茶言わないで。並み居る警備員をなぎ倒してコントロールルームを占拠するっての? たった二人で?」
セレーナは呆れ顔で僕に言った。
「もし、あなたの……私の……考えているような陰謀があるんだったら、私たちは完全に罠にはまったの。もう逃げられないわ。目的は分からないけど。でも、そんな陰謀なんてそもそもなくて、このエスコートは罠でもなんでもないかもしれない。まず事実を確かめることよ。落ち着きましょう」
「だけど、全てがおかしい――存在しないはずの君を見つけた――君が存在しない存在だということさえ気づいているはずなのにおくびにも出さなかった――」
焦りばかりが先立つ。
何か手が無いか。
「階段ホールはほかにもある。もしかすると格納庫での事故に備えて緊急操作盤のあるところだってあるかもしれない」
僕はそう言って、セレーナの返事も聞かず再び一つ上の階層に飛び出した。
階段ホールを出たT字路で、船の前後軸を貫く廊下。
そこで、僕は後方を選んだ。
前方は操縦室がある。船体の管理もそこで集中的にしているはずだ。
とすれば、そこから最も遠い場所に事故に備えた設備があるかもしれない。
焦った体で無重力の廊下を走るのは難事だった。
何度も力を入れすぎて壁の右に左にぶつかりながら進んだ。
セレーナが後ろについてきているかも確認する余裕が無かった。
たった百メートルやそこらを走破するのに何時間もかかったような感覚だった。
事実を確かめるのは後でいい。
行動だ。
いつでも逃げ出せる準備を。
何が出来るか分からないけれど。
とにかく、なんとかしなくちゃ。
動こう。
とにかく動くしかない。
必死でもがくように手すりを手繰り続ける。
――ああ、僕の責任だ。
僕がもう少し考えていれば。
もう少し注意深ければ。
通路の最後部に達する。
目の前はメンテナンス用の小さな扉だけの袋小路。
左を見ると、先ほどと同じようなT字路、その先は階段ホールになっていて、格納庫のある最下層への階段もありそうだ。
その階段ホールに飛び込もうとしたときに、突然周囲の景色が横にぶれ、僕の記憶は途切れた。




