第六章 ファントム・オブ・カノン(2)
彼の名はデニス・ケンドールといった。黒髪短髪、浅黒い肌で僕より随分背が高い。
休日に突然訪ねてきた僕らを、彼は見下ろしながらも怪しみもせずに自宅の応接間に通した。
広い家だったが、彼がひとりで住んでいるらしかった。
しかし、男の一人暮らしの割には随分と小ざっぱりと片付いていた。最後まで彼が一度も開こうとしなかった扉の向こうがとても気にはなったけれど。
こんなものしかないけれど、と言って、彼は、缶のコーヒーとジュースと清涼飲料を示し、僕はコーヒーを、浦野はジュースをもらった。
彼自身もコーヒー缶を開けてひとすすりしてから自らの前のテーブルに置いた。
「少し前に連絡があってね、五人で来ると聞いていたが。なんといったかな、アップルティーみたいな名前の学者さん……」
アンドリューさんが、僕らの訪問を見越して、連絡を入れてくれていたようだった。
そんな小さな親切に感謝するとともに、僕はもう一つ発見をした。
アンドリューの紅茶、あのさわやかな香り、きっと、リンゴ果汁を少しだけ絞りいれてる。アップルティーと呼ばれない程度に、誰にも気づかれない程度に。
その美味しさの秘密が淹れている人の名前のおかげだと言われない程度に。
「アンドリュー・アップルヤードさんですね。先生にこちらをご紹介いただいて」
「聞いてるよ、何かお金持ちのお嬢様のお付き合いでとかなんとか、お嬢さんが?」
と、浦野に視線を投げる。
浦野は否定するでもなく、えへへー、などと頬を赤らめているが、
「いえ、この子じゃなくて、ちょっとほかの技術者の方々にも手分けして取材中なんです、お嬢様はそちらに」
「なんだ、お嬢様にお近づきになれるチャンスかと思ったら、俺は外れクジってわけか」
と言って彼が笑い、ちょっと浦野はふくれっ面。
「それで早速ですが、その、お嬢様、が、この惑星の面白い噂を聞きつけて、何としても見つけ出してやろうって息巻いていてですね」
アンドリューのちょっとした嘘にうまく調子を合わせて僕の口から出まかせが出てくる。すっかりセレーナに毒されてしまったかな。
「ははあ、アップルティー先生にも話した、カノン研究者の噂だね」
コーヒーを含みながら、彼は半笑いでうなずいた。話が早くて助かる。
「その、それは単なる噂か伝説みたいなものだってみんな言うんですが、やっぱり気になって。宇宙中どこにもいなくなったカノンの理論研究家、だなんて言われると」
「確かになあ。ただ、現実のところを言うと、もうカノンの理論には手を入れる余地が無いんだよ。理論は完成しているし、必要なものさえ揃えれば誰にだってカノンを設計できるほどのテキストがそろってる」
「それでも、まだどんどん新しいカノンは開発されているわけですよね」
「もちろん。技術はまだまだ進歩するよ。初期のカノンはせいぜい三光年しか飛べないものだった。それは、着弾制度が低かったからさ。着弾精度を決めるのは、カノン技術の本体である『タキオナイザー』……ああ、物質を、超光速状態に反転させる装置なんだけどね、そのタキオナイザーとは関係ないんだ。タキオナイザーに入るまでの加速における精度向上こそがカノンの着弾精度を決める、加速精度が上がれば、より遠くに正確に着弾させられる、そこには、まだいくらでも改良の余地があるんだよ。着弾精度が上がれば、あとはそれに合わせて、タキオナイザーの虚数タイマーを少し長くするだけでいい。それで、もう少し遠くに正しく着地できるようになる。その技術競争は激しいものだよ。うちの会社の実験用カノンでは、今、宇宙三位、22.5光年の記録が出てる。宇宙記録は25.1光年だ」
二十五光年。エミリアと地球の距離は百光年くらいと聞くから、もしそれが実用化されたらたった四回のジャンプで行き来できるようになるのか。
なんてことに感慨を受けて、それから、我に返る。そんな話を聞きに来たんじゃない。
「その、今じゃ不要になった理論研究をしている、その、ちょっと――」
「――アレな人、が、だね。いるらしい。俺は直接の面識はないが、カノン技術学会で見たという人がいる」
そうか、学会か。
そんな場所で待ち伏せていれば確実じゃないか。
だけど。
「学会って、そんなに頻繁にあるものじゃないですよね」
「ああ。最近では、二年に一度だ。次はえーと……」
と彼は情報端末をめくった。
「……来年の今頃、標準歴の三月十日からだね。カノン通信で各惑星会場を結んで行われる大規模なものだ」
だとすると、とてもじゃないけれど、それを待ってはいられない。
「その、その人にどこに行けば会えるでしょうか」
浦野が尋ねる。
「分からんね、アンビリアにいるらしいというのも伝説みたいなものでね、古いカノン研究の聖地だから、そんな伝説が生まれただけかもしれん」
「じゃあ、そもそもそんな人いないってことも?」
「それも分からん。知り合いの話も、なんだか変な爺さんが会場に来て、まだこんな古い理論にしがみついとるのかとかなんとかぶつぶつ言っているのを聞いたってだけで、もしかすると、単なる痴呆老人かもしれん」
まさに、単なる痴呆老人と考えたほうがいいのかもしれない。そんなおかしな人はどこにだっている。金と暇を持て余して、適当な学会に大金を寄付して入場権利を得ては冷やかしに行くような。
いるに違いないと思っていた僕の気持ちは、徐々に逆に振れはじめている。
けれど、浦野の眼差しは真剣だ。
「そのお爺さんの特徴とかって、分かりますか?」
直接見たわけでもないのに分かるまい。
「ああ、その知り合いがその爺さんのことを覚えていたのは、とてもおかしな爺さんだったからでね」
そう言いながら、デニスは思い出し笑いのような表情を浮かべた。
「ペンギンを連れていたんだって。二匹もね。リードをつけるわけでもなく。爺さんの後ろを、爺さんの背丈の半分近くもあるようなペンギンがぺたぺたとついて歩いていたっていうんだから、傑作じゃないか」
ああ、痴呆老人決定。
どう考えても、妙な趣味に凝る金持ち隠居のイメージしか思い浮かばない。
「ペンギン! ペンギンを飼ってる人ですね!」
ちょっと浦野、そのヒントに食いつくのはどうかと思うぞ。
犬か猫ならともかく、ペンギンだぞ。
しかも、厳粛な学会の会場にペンギンって。
ちょっと頭をどうにかしてるよ、それは。
デニスも同じようなことを考えたのか、前のめりに食いつく浦野を見て、くすっと笑った。
「まあ、手がかりはペンギン――だけだなあ」
「ありがとうございますっ!」
彼女がデニスの手を取ってぶんぶんと振り回すと、彼も照れたように頬を赤くした。
こっちのチームはあまり良い手がかりはなかったかな、と心の中で結論を出しながら、まだ半分も飲んでないコーヒーを一口、口に含む。
まだ、インタビューすべき人はたくさんいるけれど、もし、みんながみんな、ペンギン爺さんの話を笑いをこらえながら教えてくれたとしたら、どうしよう。
要するに、ペンギン爺さんの話と伝説の理論家を勝手に結び付けて遊んでいるだけだった、ということになるわけで。
振り出しどころか、大後退だ。
何もかも最初からやり直さなきゃならない。
まだ宇宙のどこかに、カノンの理論研究をしているところはないだろうか。
ちゃんとした研究所じゃなくてもいい。
大学の、どこかの研究室とかで、学生の手習いのために理論研究をしているような。
そんなところの大学院生なら、もしかすると、ルイスの役に立つかもしれない。
そうだ、そっちの方がまだ目がある。
だけどそんなところにどうやって。
……ここでも、また、コネクションだ。人生に一番大切なものはコネクションだと言い切ったセレーナの言葉が、重くのしかかってくる。
「……というわけでねえ、結局、その後片付けを小さな爺さんが一人でね」
「うっふふふふ、へえ、面白いお爺さんですねえ」
僕が考え事をしている間も、デニスと浦野は、ペンギン爺さんの話で盛り上がっていたらしい。
「面白い話になったかね? お金持ちのお嬢様にもご満足いただけるお話ならよかったんだが」
「ええ、とっても面白かったです。本当にありがとうございます!」
浦野が勝手に話を打ち切っているが、まあ、別にいいだろう。ここで聞くべきことはもう無い。
僕と浦野は、おもてなしとお話にお礼を言って、彼の家を後にした。




