第四章 必修科目(4)
アンドリューは、アルカス共和国に関する資料を一揃い集めて、僕の端末に転送してくれた。
彼の協力に何度も感謝の言葉で返した。
彼は、これは僕の正義の心がさせることだから、と言った。
すぐに発とうとする僕らを、彼は引き留めた。
「二度と会えないかもしれないから……もう一杯だけ、お茶を一緒に楽しんでくれないか」
彼が言う。
僕らに拒否する理由はない。
ありとあらゆる協力を無償で提供してくれた彼に、少しでも恩返しができるなら。
再び淹れたての紅茶が僕らの前に現れた。
僕が人生で初めて美味しいと思ったその紅茶を、口に含む。
渋み、そのあとに甘み。鼻にさわやかな香りが抜けていく。胸が温かくなる。
「僕は、うれしいんだよ」
アンドリューは言う。
「宇宙に絶望してすべてをあきらめてもおかしくないほどの窮地に君たちはある。だけどあきらめず、そして、僕のところに来てくれた。ふふっ、僕は、自分の価値を誤解してしまいそうだよ」
言いながら、また情報端末を表示して、何かのリストを表示した。
「……これは?」
「僕の論文のリストさ。見てごらん。最初の一本以外はすべて査読落ちさ。僕はね、落ちこぼれなんだよ」
手を振ってリストを消し飛ばす。
「運よく認められた論文一本の力だけで、この研究室を手に入れた。だけど、それ以降はだめさ。研究費はどんどん減っていくし、時々、高校の課外授業の講師をして生活費を稼ぐ生活、もしかすると、僕は研究者ではなく教師なんじゃないかと勘違いするくらいだよ」
「でもアンドリューさんの助言と啓発で僕らは真実にたどり着きました。きっと、今度も」
「そう、だからこそ、僕は教師なのかもしれないと思うんだよ。子供を導くことはできても、自分では新天地を拓けない」
「そんなことは――」
「慰めはいらないよ」
アンドリューは、寂しさが混じる笑顔を僕に向けた。
「実のところ、それが正しいのかもしれない、と思ったんだ。若者を導くことこそ、僕の天職かもしれない、と。気づかせてくれたのは、君たちだ」
僕は首を横に振る。
「そんなことを言わないでください。あなたは、僕にとっては偉大な先輩研究者なんです」
「ははっ、照れるな」
彼は笑いながら頭に手をやった。
「だが、僕はしばらく、その仕事はお休みだ」
「ど、どうしてです」
ついさっきまで、技術史の研究に手を付け始めたところだと、語っていたところだというのに。
「君たちの仲間に入れてもらいたい」
すぐに飛び出てきた彼の言葉に、僕は再びめまいを感じる。
いくらなんでも、そんなことはできない。
なぜって、これは、僕らの問題だから。
全く関係のない平和に暮らしていた彼を、どうして巻き込めるだろう。
「これ以上あなたに面倒を――」
「君の気持ちは分かるよ」
彼は右手に持ったままのティーカップを、口に運ぶでもなく皿に下ろすでもなく、じっと見つめた。
「だけど、君たちがたった二人で宇宙と戦うと知って……僕はもう、じっとしていられないんだ。偉大な才能をここで失いたくない。……もし君が宇宙から失われたらと思うと」
「だからと言って、あなたが危険を冒す必要はないわ」
「セレーナさん、だからこそなんだ。僕はさっき言った通り、もしかすると、君たちを宇宙に送り出すために生きてきたのかもしれないと思っている。君たちが失われた宇宙なんて見たくない」
「まるで、あなたの言葉は心中を望んでいるようです」
セレーナはうつむいて、つぶやくように言った。
「そうだね……心情的には、その通りだよ。僕ら大人が君たちにそんな重いものを背負わせて……僕は、自らを危険にさらすことで、その罪の意識を和らげたいと思っているのかもしれない」
アンドリューは、その重い心の内を吐露した。
それは、僕が、罪の意識を跳ね飛ばそうと宇宙一の悪人になろうとしていたように。
彼は、自らの命を危険にさらそうとしている。
止めなくちゃ、ならない。
「アンドリューさん、あなたがそんな――」
「ジュンイチは黙ってて」
僕の慰めの言葉を、セレーナは右手を広げて遮った。
その瞳は、クールな青い瞳にもかかわらず燃えるような色をたたえている。
やがて、セレーナはゆっくりと立ち上がった。
右手をゆっくりと水平に上げる。
アンドリューはただそれをぼうっと眺めているだけだった。
セレーナは、すうっと息を吸い込むと、呼吸を止め、やわらかく握った右手から人差し指を押し出し、アンドリューをその照準に捉えた。
彼女の全身を青い炎のドレスが包んだと錯覚した。穏やかなのに厳然とした表情は、何者にも干渉を許さぬ気品を帯び、その背景を真っ白にかすませる。
「ロックウェル連合国市民、アンドリュー・アップルヤード。かしずきなさい。あなたに、エミリア王女セレーナ・グリゼルダ・グッリェルミネッティの騎士として、私を守ることを命じます」
そのあまりの気品に気圧されて――
アンドリューは椅子から滑り落ちるようにひざまずいていた。
頬が上気し口元が緩み、瞳は潤んでいる。
それは、僕が騎士の誓いをした時と同じ。
僕は、きっとあんな表情をしていたんだ。
宇宙一美しく気高い王女に魅了されたその瞳。
王女の瞳の炎が燃え移ったような、決意の色をたたえて。
「我が命にかけて」
右手をとり、その甲に、アンドリューはキスをした。
セレーナ・グリゼルダ・グッリェルミネッティという王女は、その美貌と気品と理想によって、彼女に忠誠を誓う騎士を増やさずにいられないのだ。
……僕もその一人だから分かる。
彼女に、かしずきなさい、と言われて、断れる男が果たしてこの宇宙にいるだろうか。
何分、忠誠の誓いが続いただろうか。
セレーナは、突然ふわりと表情を緩めて、笑顔を浮かべた。
「さあ、アンドリューさん、儀式はおしまいです。あなたはもう私たちの仲間」
そう言って、セレーナはすとんと椅子に腰を下ろした。
アンドリューも、急に恥ずかしくなったのか、ちょっと斜め下に目線を向け苦笑いをしながら椅子に戻った。
「でもね、アンドリューさん。私たちの仲間だからと言って、危険に身をさらす必要はないんです。実は、私たちには、あと三人の仲間がいます。それは、とても大切な友達。私たちがここを訪問する間、彼らには安全な場所で待ってもらっているんです」
「そうだったのか、たった五人で。でも、これからは六人だ」
「ええ。そして、アンドリューさん、あなたの役目は、この私たちの城を守ること。この研究室は、私たちの大切なお城なんです。いいですね、我が騎士アンドリュー」
「殿下の仰せとあれば」
芝居がかって頭を下げ、それから彼は大笑いした。
僕らもつられて笑った。
「……っはっは、やられたよ、まんまと。我が主にここを守れと命じられたのじゃあ、しょうがないね。君たちがまたここに来る日に備えて、この城を守るとしよう」
彼の言葉に、僕もセレーナも笑顔でうなずいた。
――その主従の誓いは、アンドリューを守るために。
そうだった。
僕だって、こうやって何度も彼女に守られてきた。
これからもきっと彼女は僕を守ってくれる。
その百万分の一でもいいから、僕は彼女を守るための力になろう。




