第9章「終焉夢想」
僕達は鳥居を潜る。
そこに広がっている光景は穏やかなものだ。
スサノオとツクヨミが倒れている。
その手には刀が握られていた。
おそらくすぐに無力化されてしまったのだろう。
そして僕は他の場所に目を向ける。
そこには阿形と吽形の姿があった。
僕と祀はゆっくりと2人の身体を持ち上げて近くの木に寄りかけさせる。
これで少しは楽になったかもしれない。
しかし2人がふと目をゆっくりと開いた。
大きな瞳が僕と祀を交互に見る。
僕は小さく微笑んだ。
「……どうしたの2人とも?」
「……どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?」
阿形と吽形がこちらに尋ねる。
どうやらそんな顔になっていたらしい。
僕に演技の才能はないようだった。
まさか最後まで完璧にならないとは思いもしなかった。
こんな時くらいもっと上手くいってくれても良いじゃないかと思った。
とはいえもう遅い。
しかしせめて涙は見せたくないと思った。
見せてしまえばもう耐える事ができない。
ダムの崩壊した川のような事になりかねない。
だから僕は必死で平気そうな顔をする。
祀も同じ心境らしかった。
しかし僕と違ってあちらは終始一貫して微笑んでいた。
強い、と思う。
きっと彼女は僕以上に胸を痛めている筈だ。
自分の手でなにもかもを破壊してしまう。
それは恐怖であり、焦燥であり、不安であり、困惑であり、後悔であり、無念であり、苦しみであり、絶望。
だけど彼女はそれを必死に押し殺して2人を心配させないように平気な顔をしている。
そうして2人はやがて開いた目を眠そうに細めた。
「大丈夫だよね、きっと」
「大丈夫、心配ない」
吽形の言葉に僕は頷く。
「ずっと一緒だよね」
「ずっと一緒ですよ。約束します」
阿形の言葉に祀は頷く。
2人の目にはそれがどう映ったのか。
2人の耳にはそれがどう聞こえたのか。
2人の心はそれをどう感じたのか。
僕には何もわからない。
しかし2人は小さく微笑んだ。
泣きそうだとか儚いとかそういう不完全なものではない。
心からの本音からの笑顔だ。
それはこちらの気持ちを理解していない故か。
それとも見通しているからこそのものか。
案外後者かもしれない。
彼女達の勘はとても鋭い。
そうして2人は笑顔のままゆっくりと目を閉じる。
もう何も怖くないとでも言うかのように。
眠りに就く。
そうして祀は小さく息を吐く。
まるでもうやる事はすべてやった、とでも言いたそうなものだった。
「あとはこれだけです」
「なにを?」
僕は尋ねた。
祀はこちらに顔を向ける。
「世界を救う方法。それが1つ残っているんです」
祀はあっさりと言った。
まるで誰でもわかっているような手品のタネを説明するかのように。
簡単では済まないであろう事を簡単そうに言う。
その顔にはどこか寂しそうだった。
やはり儚い微笑を浮かべている。
「2人には嘘を吐いてしまいました。もう絶対にそんな事は叶わないのに、その場しのぎで」
祀はまるで歌うように言った。
まるでこの場所がまるごと戯曲の舞台になってしまったかのような空気。
「祀、どういう事だ? なにを言っているんだ……?」
世界を救う方法だって?
そんなのは無い筈だ。
その結論にたどり着いた筈だ。
どれだけ悩んでもそれは変わらない。
あがいても残酷な答えはかわらない。
そうだ、彼女自身認めた筈ではなかったか。
なのにどうして今更そんな事を言うのか。
あとはもう進み続ける時計の針を眺めるだけではないか。
終わりゆく世界に思いを馳せるだけじゃないか。
仮にその方法があったとしよう。
しかし僕に思い付くのは1つしかない。
だがその答えを認める訳にはいかない。
「だからシンプルな答えなんですよ」
祀はこちらに身体ごと向ける。
風が吹いて彼女の後ろに纏めた髪が揺れる。
光に反射して煌めいた。
それはとても綺麗に映った。
まるで夕焼けのような美しさ。
それは一瞬で終るもの。
儚き刹那の芸術。
祀がこちらを見詰める。
僕は思わず息を飲んだ。
全てを悟りきった目だった。
もしかしたら、と僕は思う。
本当に彼女はそのつもりなのかもしれない。
きっと彼女はそれを甘んじて引き受けるだろう。
祀も僕と同じくらい誰かが傷付くのを嫌う。
自分が犠牲になるのを厭わないのだ。
ならばもう答えは自ずと見えてくる。
しかしそれを絶対に認める訳にはいかないと思った。
もしかしたら全く別の方法かもしれない。
誰も犠牲にならずに済むような、そんな夢みたいな方法が。
だから何も言わないでくれと思う。
僕が願う夢みたいな方法なんてある訳ないから。
だから僕は彼女の口を塞いでしまおうと思った。
もう結果は出たから良い。
こんな悲劇で終わったとしても構わない。
だから祀の答えは必要無い。
僕はゆっくりと動き出す。
しかし彼女は身を翻して僕を避けた。
つまずきかけ、僕は踏みとどまる。
ごくりと唾を飲んだ。
「本当に簡単な事じゃないですか」
祀の顔はどこか笑っていた。
心から嬉しそうに。
心から悲しそうに。
心から苛立たしげに。
心から苦しそうに。
心から憎らしげに。
心から虚しそうに。
それは笑顔なんかではなかった。
「私が死んでしまえば良いんですよ」
その言葉に僕は凍り付く。
自分の脳味噌がおかしくなったのかと思った。
きっと聞き間違いだろう、と思い込もうとした。
しかしそんな事は有り得ない。
ただ逃げているだけだ。
しかし本当に訳がわからなかった。
どうして彼女だけが犠牲にならなければいけないのか。
別にそんな事をせずともいつか全員に破滅が訪れる。
ならば何もしないでこのまま全員で破滅を受け入れたって良いではないか。
それを否定する言葉を探す。
しかし開いた口からは何も出てこない。
まるで言語機能を失ったかのようだった。
パクパクと魚のように唇が開閉する。
その時の僕の顔はとても間抜けなものだっただろう。
「私が死んでしまえば他の神性もその機能を失います。悪性も例外ではありません」
「だけど……それじゃあ祀だけじゃない、アマテラスも命を失う事になるぞ」
「彼女は本来の肉体が残っているので私の肉体が死亡してもそちらに移るだけです」
「で、でもッ! それならどうして2人に抵抗する必要があったんだ!? それは祀が死にたくないからだろ!」
僕は声を荒げた。
こんな事を認めてたまるか。
しかし彼女の顔は変わらない。
まるで少しも響いていないとでも言うかのようだった。
「最期は貴方の手で終わらせて欲しいんです」
ぽつりと祀は言った。
「誰でもない貴方自身の手で私は終わりたいんです」
「おかしいよ……そんなのは」
「確かに。私は少し狂っているのかもしれませんね」
彼女の姿は寂しげだった。
まるで親にねだったおもちゃを買ってもらえない子どものように見える。
視界が狭まってくるのを感じる。
世界がまるで小さくなってしまったかのようだった。
紛れも無い、僕と彼女だけの世界。
そこに他の物は存在しない。
「貴方が私の全てを抱えてくれれば私はそれだけで幸せなんです。元々これは私が原因ですし」
「僕の原因でもある」
「ならその責任として私の願いを聞き入れてください」
「無理に決まっている……」
僕は力なく項垂れた。
「もう時間は殆ど残っていません」
祀は冷たく言い放つ。
確かに僕はいつか起きると考えるだけでその問題を後回しにしてきた。
ずっと目を背けていた。
しかしそれは本当に間近にまで近づいているんだ。
もう目と鼻の先にまで。
比喩でもなんでもなく。
僕はどうすれば良いのかと考えた。
しかしその答えは出ない。
僕にできるのはイエスかノーか。
その二者択一のみ。
それ以外は許されない。
彼女は決してそれを望んでいない。
逃げ出すことはそもそも考えていない。
僕は彼女と正面から対峙しなければいけない。
「わかっているさ……でも、出来るわけないじゃないか、大切な人を殺めるなんてさ」
「大切だからこそその願いを引き受ける、という考えにはなりませんか」
「なる筈が無い……!」
僕は肩を震わせた。
怖気があった。
まるで凍りつきそうだ。
心臓が締め付けられているような感じがする。
とても苦しい。
「最期の最期までずっと居たい。たとえ時間が無かったとしても、せめて最期の一瞬まで君の隣に居たいんだ」
「私の本音もそうです」
祀はやはり涼しい顔でそう答えた。
「でも世界の命運が懸かっている以上そんな我儘を叶える訳にはいきません」
「だから一足先に僕の元から消えてしまうのか」
「残酷だと思っています」
「大事な存在だと思っているならやめてくれ」
「貴方も私を大事な存在だと思っているならそれを叶えてください」
ずっと話は平行線を辿るだけだった。
どちらも譲り合わない。
それは自分の根幹を揺るがしかねないからだ。
折れればもう二度と立ち上がる事はできない。
つまり僕達は互を大切に思っている以上理解し合う事はできない。
「祀、本当にこうするしかないのか?」
「ええ。本当にこの方法しか残っていません」
「今から動いても、抵抗しても無駄なのか?」
「私を殺すことで悪性に対抗し、打ち破る事はできますよ」
「本当にそう思っているのか?」
「はい。心から」
それは嘘だよ、と僕は言った。
祀の睫毛がぴくりと動く。
「ならどうして泣いているんだよ?」
祀が驚いたように目を大きく開く。
その瞳から透明な粒が流れ落ちた。
僕は一歩を踏み出す。
祀の肩は震えていた。
小刻みに震えるその小さな身体を今度は自分から抱き締める。
彼女の匂いと体温を強く感じる。
「もう……良いんだよ、自分の心を曝け出して」
僕は彼女の耳に囁く。
語り掛けるように。
彼女が楽になるように。
「もうさ……無理しなくて良いんだ」
「わ、たしは……」
ぽつり、ぽつりと僕の首に水滴が落下していく。
とても熱い。
「もう頑張らなくて良いんだ」
すると祀は一瞬だけ息を呑み、そして嗚咽した。
彼女の腕が力強くこちらを抱き締める。
僕もそれ以上に祀の身体を強く抱き締めた。
2つの影が1つに重なる。
祀は声を震わせて叫ぶ。
「私は……ッ 全部自分のせいなのに……っ!!」
「全部背負わなくて良いんだよ。祀の手で救われた人だって確かに居るんだからさ」
「結局その人も何度も苦しませました……!」
「少なくとも僕は救われた」
そうだ。
僕がこうしてここに居るのは紛れも無い祀のお陰だ。
彼女が繰り返してくれたからこそ。
彼女が僕を受け入れてくれたからこそ。
僕はこうして再生できた。
モノクロの世界から虹色の世界に。
マイナスからプラスに。
静から動に。
零から那由他に。
闇から光に。
今まで僕を支配していた世界から抜け出させてくれたのが祀だった。
真っ暗で何も見えない世界に居た僕を照らし、導いてくれた存在。
彼女が居てくれたから僕は顔を上げる事ができた。
彼女が居てくれたから僕は立ち上がる事ができた。
彼女が居てくれたから僕は一歩を踏み出す事ができた。
彼女が居てくれたから僕は道を迷う事がなかった。
彼女が居てくれたから僕は転ぶ事がなかった。
彼女が居てくれたから僕は壁にぶつかる事がなかった。
彼女が居てくれたから僕は今もこうして歩き続ける事ができた。
彼女が居てくれたから僕はその先に両腕でも抱えきれない程の大切な存在をいくつも手に入れる事ができた。
心からそう言う事ができた。
彼女だったからこそ。
「辛くて、苦しくて、諦めたくて、痛くて、不安で、怖くて、悲しくて……っ! ずっと一緒に居たいのにそれは叶わなくてっ! このままずっと大好きな人と一緒に寄り添ったまま生きていきたくてっ! でもそれはもう絶対に叶わないからっ! 叶えちゃいけないからっ!」
祀の声は掠れて震えていた。
大声なのにとても小さく聞こえた。
しかしそこに宿る感情はなによりも強烈で鮮烈だった。
ぽろぽろと大粒の涙を零しながら嗚咽する。
そうして彼女はいつまでも僕の胸の中で泣き続けた。
×
そうしてどれだけ経っただろうか。
石畳の上で寝そべっていた僕はふと我に返る。
僕の隣で同じ体勢になっていた彼女はゆっくりと身を起こして立ち上がる。
僕もそれに合わせて立ち上がった。
彼女の顔を見詰める。
その顔にもう弱さはなかった。
全て吐き出し、楽になったようだ。
そして迷いなく彼女は告げる。
「今までありがとうございました」
そうしてぺこりと彼女はこちらに頭を下げた。
「……」
僕はやはり黙ったまま彼女の目を見詰める。
そこに迷いはない。
「そして今まで何度も辛い思いをさせてすみません」
ああ。
「これで最期ですが何かありますか?」
そうか。
「本当にやめる気はないんだな」
「はい」
即答だった。
僕はゆっくりと目を瞑る。
そして瞼を上げた。
視界がクリアになる。
全ての音が流れ込む。
認識できる情報が拡張していく。
僕は自らの力を解放する。
封じられた力をありのままに振るう。
「――本当に、ありがとうございました」
祀はそれだけ言った。
それだけ言うと彼女の身体を光が包む。
莫大な光は絶大な熱となり強大な熱は炎となって周囲をじりじりと焼いていく。
タイムリミットが訪れた。
それは彼女でも抑えるのがやっとだったのだろう。
とめどなく炎は溢れ出す。
火の粉がまるで蝶の様に舞う。
蝶はあまりにも綺麗だ。
残酷な程、恐ろしい程、それは鮮やかだった。
世界の終わりが始まる。
ああ、そうかと思った。
やるしかないのか、と。
僕は右手を伸ばす。
そこから一振りの刀が出現した。
祀から直接渡されたもの。
天満月。
もしかしたら最初からこの時の為に彼女はこれを渡したのかもしれない。
今となってはそれを確かめる術はない。
化け物じみた炎の奔流はまるで龍のようだった。
その中央に銀髪の少女が居る。
初めて出会った時の祀はちょうどあんな姿だったな、と思い出した。
今の彼女は無表情で破壊を撒き散らす存在に変わっていた。
いずれここは焼き尽くされるだろう。
僕は刀を強く握り締め、一歩ずつ、噛み締めるように歩いていく。
1人で歩いていく。
しかし龍は炎を吐き出した。
津波の如き熱と光の塊は驚異的なスピードで僕の元に殺到した。
このままでは僕の身体は灰も残さず消失するだろう。
しかしそんなものをよけられる訳もない。
故に僕は迷いなくそれに立ち向かう。
空気を灼く音が耳に届いた。
しかし何も感じない。
熱くも眩しくもない。
死んだのかと思った。
一瞬で僕の身体は焼き尽くされたのかと考えた。
しかしそれは違う。
僕の目の前に誰かが立っていた。
その誰かはこちらに微笑んだ。
祀の善性。
それが僕を護ってくれていた。
そうして僕は右手で握った刀の切っ先を祀に向ける。
1人では無理だと思った。
しかしそこには僕1人だけではない。
後ろを振り返ると皆が居た。
阿形、吽形、アリスト、カサス、雅、ワーミィ、舞子、和良、エル、瓜、白雪、風芽、朱音、照玖、魅麗、貉那。
それだけではない。
巳肇、千鶴、蓮華、ルー、マリー、アレイシア、鋼、神月夜。
僕が今までにこの街で関わってきた人達が集まっていた。
きっと彼らはなにが起きているかわからないだろう。
でももしかしたら今まで繰り返された世界の記憶の断片から何か理解したのかもしれない。
それが結果として僕の背中を押す事になった。
全員僕の目を見詰めていた。
そこにあるのは祀を救えというメッセージ。
それはつまり彼女の命を散らす事。
そしてその苦しみから解放する事。
それは何よりも残酷であり、唯一の救い出す方法。
そうしていつの間にか目を覚ましたらしいツクヨミとスサノオも静かに僕を見守っていた。
僕は迷わない。
祀の善性がこちらの右手に手を添える。
力を貸すとでも言うかのようだった。
目の前には悪性が立っていた。
僕は天満月を突き出す。
炎の奔流はそれを阻もうとする。
吹き飛ばされそうだった。
僕は必死で踏みとどまる。
攻撃は善性によって防がれていた。
ならば立ち止まる必要はない。
僕は力づくでそこを進んでいく。
押し寄せる波をかき分けて進むかのようだった。
そうしてようやく祀の目前に立った。
ここにはもう誰も居ない。
僕と彼女だけの世界。
光で包まれた世界。
彼女はこくりと頷いた。
僕は歯を食縛る。
砕きかねない程食縛り、刀で祀の身を貫いた。
×
祀が咳き込んだ。
その度に彼女の口から血が吐き出される。
祀の身体から力が抜け、周囲に展開されていた光がその輝きを失い、やがて消失する。
蝶も羽ばたきをやめて地面に落下していく。
それは小さな音を立ててすぐに消えてしまった。
僕は彼女の身体を抱きとめると同時、膝を突いて石畳の上にへたり込む。
彼女は僕に寄りかかる形で倒れた。
僕は全身から力が抜けきっていた。
僕の腕の中で彼女が今消えてしまおうとしている。
「ごめ、んな……さい」
その声はとても小さくて聞き取るのに苦労した。
消え入りそうな声だった。
刃を、柄を伝って僕の手首と指に彼女の熱いものが掛かる。
それは彼女の血液だった。
とても赤く、熱い。
今更ながら僕がやってしまんだなぁ、と思った。
一紗の時みたいにどうにかならないかなと思った。
しかし助かれば世界は滅ぶ。
そんな事はあってはならない。
彼女が望んだ結末。
望むしかなかった結末。
それは僕の手で起きてしまった。
彼女の体温で温かい。
彼女の身体が柔らかい。
彼女の良い匂いがする。
しかし僕の心は激痛に悲鳴をあげていた。
多分間も無く僕は壊れてしまうと思う。
心をめちゃくちゃに破壊して、理解するのをやめると思う。
そうすれば傷つかないから。
弱いから逃げるしかない。
ならばそれが一番簡単だ。
立ち向かうよりも受け入れるよりも簡単だ。
ぼんやりといつ僕は壊れてしまうんだろうと考えた。
きっと祀もこう思っていただろう。
ただ違うのは彼女はそれを恐れていて僕はそれを望んでいるという事。
彼女の傷口から赤い、緋い、朱い、赫い、紅い血が溢れている。
それは止まる気配がない。
彼女の心臓が鼓動する度に血は流れる。
彼女の生命が直接流れ出している。
火傷しそうな程熱く感じた。
生命そのものの熱。
消えゆく命の熱。
僕は刀を抜いた。
すると一層血は多く流れ出す。
僕は刀を投げ捨てた。
からん、という音がして刀は砕け、消える。
僕は茫然と彼女の顔を見下ろしていた。
多分無表情だったと思う。
しかし僕の目からは彼女の血と同じようにとめどなく涙が溢れ出る。
それが彼女の血と混ざり合っていく。
ああ。
あああ。
ああああ。
あああああ。
僕はただただ彼女の顔を見詰めていた。
しかし祀は小さく微笑んでいた。
そうして彼女はゆっくりと右手を持ち上げる。
弱々しく震えるその手を僕の頬に持ってくる。
そして彼女は僕の頬を優しく撫でた。
べったりと彼女の血が僕の顔に塗られる。
それはまるで彼女がこの世界に残した証のように思えた。
そしてそれは僕が犯した罪の証。
好きな娘を手にかけた印。
僕は祀を抱き締める。
とても軽く感じた。
ある筈のものがないかのようだった。
血液以上の何か。
生命。
それが本当に無い。
僕の視界が急に狭くなる。
そうして何も聞こえなくなる。
そうして何も感じなくなる。
多くの人が集まっている筈なのに孤独。
何も変わらない、平和を取り戻した世界にいる筈なのに僕は世界と断絶している。
「――初めて貴方と会った時、とても輝いて見えたんです」
真っ暗な世界で彼女は僕の前に立っていた。
初めて。
この世界ではない、もっと昔の世界。
はじまりの世界。
僕は傷付いた龍と出会った。
「――眠っていた私を起こしてくれて」
僕はそこで彼女の名前を呼んだ。
姿を探していたんだ。
父親に頼まれ、初めは仕方がないからといった理由が大きかった。
だけどあの時、初めて彼女の姿を見たときその思いは吹き飛んだ。
怯えた目でこちらを見る少女。
それは大きな力を持っている神様などではなく、ただの弱い1人の女の子だった。
護りたいと思ったんだ。
「――貴方と阿形と吽形、そして貴方達と関わった全ての人達と過ごす毎日は本当に楽しいもので」
毎日誰かと会ってはすぐ友人になっていたと思う。
毎日が騒がしかった。
死にそうな本格的サバイバルを毎日誰かと繰り返していた。
だけど楽しかった。
「――夢みたいな世界は本当にあるんだって事を私に教えてくれて」
それは僕も彼女から教えてもらった。
いつも一緒に歩いていたんだ。
周りを見ると皆が見守ってくれていたんだ。
だから僕達は迷わずに進んでいた。
「――世界はとても素晴らしいんだって私はわかったんです」
そうだ。
この世界は目の眩んでしまうような、全てを受け入れてくれるような世界なんだ。
だけどそこに祀が居なければすぐに物足りなくなってしまう。
大事な要素が欠けてしまっちゃいけないんだ。
彼女は笑っていた。
それは完璧な笑顔で。
やっぱり悲しそうな笑顔だった。
「……行っちゃうのか?」
「多分、もう会えないと思いますが」
「会えるって言ってくれよ」
「嘘は苦手なのです」
「僕も。すごく泣きそうだ」
「もう泣いてるじゃないですか」
「そうだな。本当に情けないな僕」
「そんな貴方が私は大好きなんです」
「僕も君が好きだ。なのにこんな悲劇で終わってしまう」
僕は顔を俯けた。
「ならせめて最期に思い出を残しておきますか?」
「なにそれ?」
「言わせるんですか私に?」
「まさかとは思うけど僕の想像だと――」
そう言いかけたが最後まで続ける事はできなかった。
僕の唇に何か柔らかいものが押し付けられていた。
甘い味がする。
彼女の吐息を感じる。
彼女の体温を感じる。
彼女の良い匂いがする。
唇が重ねられていた。
「――私のはじめてです」
「響きがいやらしいね」
「怒りますよ?」
「ごめん。僕も初めてだった。頭が働かないや」
僕ははははと笑う。
涙をぼろぼろと流れた。
すごく嬉しかった。
でもそれと同じくらい胸が張り裂けそうだった。
こんなにも愛おしい彼女がもう居なくなってしまう。
それは楽しい夢の終わりみたいだった。
ハッピーエンドを体験しないまま夢が終わってしまう。
だけどこれが本当に夢なら良かった。
それじゃあキスとか全部なかった事になるけど。
全部壊れて消してそうして目が覚めて皆の顔が見られれば。
それで全部元通りにやり直せる。
だけど始まりがあれば終わりがあるのが当たり前で。
楽しい時間というのは一瞬で終わってしまうもので。
苦しい時間というのはいつまでも続くもので。
めちゃくちゃに壊れて重荷になってしまった何かを抱え続けるのはとても骨が折れる訳で。
それを考えてしまうと僕は暗澹たる気持ちになって嗚咽した。
そして祀も泣いていた。
堪えるのを耐え切れなかったかのようだった。
それでも彼女は最後まで笑っていた。
今にも壊れてしまいそうで。
しかし祀はくるりと身を翻す。
「それではお元気で」
彼女の声は震えていた。
それでも気丈に振舞っているんだなぁと感心した。
そうして僕はまた涙した。
祀がゆっくりと闇のむこうに歩いていく。
「――ま、待って!」
消えていく彼女の背中を追う。
しかし祀は振り返らずずっと先に行ってしまう。
僕は必死で手を伸ばした。
しかしそんなものが届く訳もなく。
右手は虚空を掴むだけだった。
光がなければ僕は何も見えない。
歩く事もできなければ立ち上がる事もできない。
僕は必死で彼女を追った。
やはり祀には手が届かない。
僕にはあまりにも遠かった。
そうして光は闇に消える。
×
我に返った。
そこは雪の積もる境内だった。
不気味なほどしんと静まり返っている。
誰も居ない。
皆居る。
皆の嗚咽が聞こえる。
何も聞こえない。
僕の心が絶叫をあげている。
何も感じない。
何も感じない。
「夜行……」
「これしか無かったんだよ……自分を責める必要なんて……無いよ」
阿形と吽形がこちらに駆け寄ってくるのがわかった。
心から心配そうにこちらに走ってくる。
それは本音からのものだろう。
しかし僕は彼女達の拠り所にもなっている大切な存在をこの手で消してしまった。
僕の目の前にはもう2度と動かない祀の抜け殻が見える筈だ。
それを見て何も思わない筈がない。
もしかしたら全員全てを理解しているのかもしれない。
だからこそ僕を責めるどころか気遣っている。
寧ろ僕はそれがとても苦しかった。
どうせなら石でもぶつけて後ろ指でも差してくれた方がマシだ。
徹底的に僕を蔑んで欲しかった。
それで罪が消えるとか許してもらえるなんて思っていない。
彼女に与えた苦しみ以上の苦しみを僕が背負う。
そうしなければならない。
しかし皆は僕を受け入れてくれた。
全てを汲み取った上で、それでもなお僕を認めてくれた。
それがなによりも僕を苦しめた。
僕の中の誰かが責め立てている声が聞こえる。
声が響く度に怖気が走る。
罪の意識を感じる度に背筋が凍る。
しかし今はそれが心地よかった。
自分が苦しんでいるというたった1つの事実が僕を楽にしてくれた。
僕はもう完全におかしくなったのかもしれなかった。
2人が屈んで僕の顔を覗き込む。
いつかの事を思い出した。
しかしあの時と違うのは祀が死んでしまった事。
そして死なせたのが僕だという事。
これは一体どんなシャレだろうか。
あの時僕は怒りに駆られて破壊を撒き散らそうとした。
しかし今はそんな気配がない。
自分が可愛いとでも思っているのか。
この罪人が。
僕は自分に吐き捨てた。
もう疲れた。
何もかも。
きっと彼女は今の僕を見たら失望するだろう。
しかしもう立ち上がる気力など無かった。
このまま消えてしまいたかった。
地獄のような場所で何も考えられない程苦しんでいた方がきっと楽だと思う。
僕は力なく、壊れたオモチャのように笑った。
「「夜行っ!」」
しかしその時両頬を挟むように殴られた。
ビンタではなくグーだった。
目の前でスパークが瞬く。
僕はあっけなく仰向けに地面に倒れた。
後頭部を強く打ち付ける。
しかしそんなものは痛くなかった。
2人からの思いが籠った殴打の方がとても響いた。
ずっと闇の中でうずくまっている僕に。
阿形と吽形はぼろぼろと大粒の涙を流していた。
彼女達の涙がこちらの頬に掛かる。
それは僕の中に染み込んでいくようだった。
水面に波紋が起きるイメージ。
闇の中で僕は顔を持ち上げた。
「……ごめん」
僕は皆に頭を下げる。
「でもさ、もう駄目なんだよ。今まではなんとかなったけどさ、僕は皆が思う程強くなんかない。逆なんだ、とても弱いんだよ。自分で決心してやった事なのにこんなにも揺らいでいるんだ」
僕はボソボソと言う。
朱音達が嘆息したのがわかった。
そうして僕の視界は急に反転した。
反応する暇なんてない。
あっけなく再び地面に押し倒される。
そうして起きるのはリンチの嵐。
殺気満々だった。
「自分の惚れた娘1人守れないで何様のつもりさね……?」
「こっちはキミに惚れていたのだけれどガッカリね……」
「残念だなぁ本当に。今まで楽しかったんだけど」
「流石魅麗が見込むだけはあると今までお前さんには感心していたが……まさかこんなものだったとは!」
「前に小さいの2人と風呂に入ったって聞いたけど……今更ながら怒りが湧いてきたよ」
「絶望したまさに絶望したこっちはファラオと戦闘を繰り広げていたというのに」
「和良ちゃんは運じゃないの?」
「そういえばうちの屋敷の庭で大暴れしてくれたし……」
「……凍ってしまえ」
「あー白雪もっと出力高めに」
「ねぇ2人とも、怒りはもっともだけどこれじゃ夜行も流石に死ぬんじゃ?」
「瓜心配すんな、もうコイツはじきに死ぬ」
「俺が息の根を止めてやるよ……」
「うわぁ、アリストの顔がガチだよ」
「一緒に巳肇を助けてくれた時は輝いていたのに……」
「それが今では見る影もなく……」
「2人ともそんな経験があったんですか?」
「実はルーも彼に恩義がありましてね」
「うふふふもう本気モードになろうかしら」
「アレイシア、皆が巻き込まれますよ」
「夜行様大丈夫ですか……?」
「神月夜様遠慮はいりません、この男を亡き者にしてしまいましょう」
僕は全方向から繰り出される攻撃に疲労困憊していた。
全身がボロボロになって地面に伸びる。
呻くこともできない。
しかし僕の世界から闇が晴れていく。
まるで曇天が裂けてその隙間から光が差し込むように。
それはとても眩しくて僕は目を細める。
今なら立ち上がる事ができるかもしれない。
もう1度再生できるかもしれない。
「……痛いんだよ、皆」
僕のために本気で怒ってくれて。
それでいて傷を与えないとか優しすぎて泣けてくる。
僕は俯けた顔を持ち上げた。
そこには皆が居た。
そうだ。
ずっと僕を後ろから見守ってくれていたんだ。
今まで気づかなかっただけで。
本当、僕は馬鹿だなと思った。
「さて、私は帰るか。あとは好きにしろ。こちらの目的は遂行した」
まるで見ていた演劇が終幕して立ち上がる客のようにツクヨミは立ち上がった。
しかしスサノオは面白くなさそうな顔をしてこちらを睨んでいる。
「アンタは帰らないのか?」
「なに、まだ引っかかる事があってな」
「引っかる事だと?」
僕は尋ねた。
「ああ、そうだ。こんなもんで終わらせて俺はスッキリしねぇ」
「なにを言っているんだ……」
「 テ メ ェ は そ れ で 良 い の か ? 」
そうして世界が変わる。
風景が早送りのように姿を変えていく。
それは変形とか変身という言葉がしっくりくる。
そこにあるものが姿を変えていくようだった。
石畳の地面がなくなる。
無重力感が僕を包む。
落ちているのか止まっているのかわからない。
恐怖がせり上がってきた。
ぐちゃぐちゃに混ざり合い、伸び、形を整えていく世界の中心。
スサノオはこちらを睨み付けていた。
僕も静かに構える。
右手に放り投げた天満月が出現した。
そこには未だ祀の証が残っている。
するとスサノオは好戦的な笑みを浮かべた。
「イイじゃねぇか、そんな目だ。できるじゃねぇかよ」
「一体何をする気だ?」
「荒療治だ。死ぬ気になって来い」
そうして世界の再構築が完了する。
僕は思わず息を飲んだ。
地面がどこまでも繋がっている。
どう説明すれば良いだろうか。
地球の中身を全部綺麗にくり抜いてできた空間と言えばわかりやすいか。
要は中心が空となっているのだ。
そしてその世界の更に中心に太陽が輝いている。
それは白い球体であり、あまり眩しくない。
その光が僅かに世界を照らし、不安になる仄暗さを演出していた。
まるで廃墟の中に居るかのようだった。
昼間の曇り空とも言えるだろうか。
僕は名前を忘れ去られたあの住宅街を思い出す。
その世界を例えるならば灰色だろうか。
どんな存在も生まれない、無の世界。
プラスでもマイナスでもないゼロの世界。
地面から灰色の山が隆起する。
スサノオはその頂点に君臨した。
しかし彼の姿と比べるとあまりにもその山は巨大だった。
10キロメートル近くある。
僕は首を限界まで持ち上げてその頂辺を持ち上げていた。
しかし彼の姿が見えるという事は僕もかなり高い位置に居るのだろう。
下を恐る恐る見てみるが距離感は感じない。
今は彼のおかげなのか浮遊しているから良いがこの不思議現象が終わってしまえば僕は真っ逆さまだ。
多分肉の塊になる。
背筋が寒くなった。
「俺の世界だ。歓迎するぜ」
「どうしてわざわざこんなところに呼んだんだ?」
「なに、俺が本気を出すと奴らを巻き込みかねないからな。それにテメェが万全の力を振るえない」
「万全だと?」
「そうだよ。テメェは自分の力をまるで理解してねぇ。表面だけで満足していて本質をわかっちゃいねぇ」
「この力の本質?」
「疑問が多いな。まぁやればわかってくるだろ」
スサノオは気楽そうに言った。
その瞬間。
僕の鼻先を何かが掠めた。
実際は何も掠めていない。
しかしそれだけの圧迫感があった。
僕は恐る恐る下を見る。
亀裂が走っていた。
ダンボールにカッターの刃を走らせるようにゆっくりと線が刻まれていく。
おそらくその深さは何キロメートルにもわたっているだろう。
あの線がどれだけの長さがあるか考えると気が遠くなった。
この世界は閉じられており、果てが見える。
しかしそれが具体的にどれくらいなのかはわからないのだ。
きっと地球以上はあると思う。
亀裂から粉塵がぶわっと舞った。
目をこらしてやっとわかるようなスピードで粉塵はゆっくりと上昇していく。
「正真正銘本気の神の力だ。主神じゃねぇが戦闘向きな俺は取り敢えず今のところ最強だ。文字通り頂点だ」
彼は静かに肩に担いだ刀を下ろす。
それは何時の間にか大剣に変わっていた。
出刃包丁をそのまま大きくしたような印象を受ける。
実用性が無いだろう。
しかしそれを使えるようにするのが彼だ。
ヤマタノオロチを打ち破った荒ぶる神。
そんなバケモノが僕の目の前に居る。
「さぁ始めようぜ、最後の戦いをさぁ!!」
「クソッ!」
スサノオは狂ったように笑っていた。
笑いながら大剣を振るった。
僕は天満月で振るわれた力を受け止める。
しかしそんな絶大な破壊力をどうにかできる筈がない。
僕の体はあっけなく何百キロも吹き飛ばされ、壁に叩き付けられる。
いや、地面とも言えるか。
僕の肺から空気が強制的に吐き出される。
血の味がした。
どうしてこんなダメージを受けて生きているのかわからない。
というか骨一本折れてすらいないとかどういう事だろうか。
後ろを見ると僕の身体を受け止めるように影物質が大きく展開されていた。
どうやらこれで助かったらしい。
「ある程度わかってきたんじゃねぇか?」
「……全然わからないな」
僕は身を起こして彼を睨む。
スサノオは嘲笑した。
「わからなきゃ死ぬぞ」
「理解する必要があるのか」
そう言うとスサノオは肩を竦めた。
そして一瞬で僕の目と鼻の先に来る。
彼は躊躇をしない。
右腕を突き出すと僕の首を掴んだ。
呼吸が止まる。
しかしやられっぱなしではなかった。
僕は天満月をスサノオの首を掴んでいる右手に振り下ろす。
血が吹き出た。
僕の顔に鉄臭い汁が掛かり、顔を顰めた。
「おーおー面白いじゃねぇか」
彼は心の底から楽しそうだった。
僕は首を掴んだままの彼の右手を剥ぎ取るとそれを適当に放り投げる。
しかし既に彼の切断された腕は元に戻っていた。
「じゃあ今度こそお返しだ」
そうして彼は僕の鳩尾に蹴りを叩き込む。
今度こそ本当に僕は地面に叩きつけられた。
「やっぱり頑丈だな」
血反吐を吐きながら僕はよろよろと立ち上がった。
あんな攻撃、内蔵を潰すどころか僕の身体を貫きかねない威力だったぞ。
しかし僕の身体はボロボロとはいえどうにか形を留めている。
「その謎物質の恩恵か?」
「さぁね……」
僕は口を拭う。
そうしてスサノオの周囲を影物質で覆った。
ちょうどドームのような形だ。
「こんなんでどうにかなると思ったか!?」
声がするという事は何が起きたか一目瞭然だ。
彼は刀を振り回して球体の中から出てきた。
無傷。
しかし僕はこれで終わらなかった。
油断しているスサノオに再度攻撃を繰り出す。
今度は影物質で作った杭。
無数のそれが一斉に彼に襲い掛かる。
隙間から赤い汁が噴き出す。
だがこんなもので終る相手ではないだろう。
僕は一瞬で距離を詰めると天満月の切っ先を隙間に差し込んだ。
そして莫大な推力を持ってスサノオを影物質ごと巨大な山に突き刺す。
亀裂が走った。
ドームが割れ、中から彼の姿が露わになる。
彼はやはり笑っていた。
そうして大剣を僕の右肩に振り下ろす。
少しの抵抗なく僕の右腕は肩から離れて落下する。
しかし痛みも血が噴き出す暇なく新たな腕が僕の傷口から生まれていた。
何が起きているのか。
それは正確にはわからない。
だがなんとなく僕は理解した。
本質というもの。
空亡の正体。
スサノオは目を細める。
「――テメェは何がしたい?」
「僕は祀を本当の意味で救いたい」
「だよな。なら世界を壊せ」
「どうやって?」
「テメェ自身の力でだ。押し潰して破壊し尽くせ。森羅万象を」
「できると思っているのか?」
「不可能じゃねぇだろうがよ。重力を極めればブラックホールになる。それは光すら飲み込んで時空を歪める」
僕は何かわからないがゾッとした。
彼に対してではない。
僕の中にそんな力があるかもしれないという事に。
「何が目的だ?」
「まだそんなつまらねぇ事を訊くのかよ」
スサノオは笑った。
「いつまでそんな場所に留まっている? 百鬼夜行の最後に現れる存在が」
常世の闇の終を告げる存在。
それは太陽ではないか。
空亡とは球体。
黒い太陽。
すると僕の周囲に力が集まってくる。
いや、違う。
放出する。
凄まじい力が溢れ出る。
それはあらゆるものを平等に押し潰す。
何かが軋む音が聞こえた。
それは空間が歪む音だった。
「そうだ……全て飲み込め。こんな世界を否定しろ。テメェならやり直せる」
スサノオは興奮していた。
すごいものを見た、とでも言わんばかりに。
僕は腕を伸ばした。
灰色の世界。
停止した世界がひしゃげ、潰れ、姿を変えていく。
景色が戻っていく。
そうして見えたのは皆の顔だった。
それは驚きでも怒りでも悲しみでもない。
ただ旅立ちを見送る顔。
帰還を願う顔だった。
彼らにはこの世界がどう映っているのだろうか。
十分だろうか。
やはり物足りないだろうか。
なら取り戻しにいかなきゃ。
そうして皆が揃って笑い合おう。
ありがとう、と僕は言った。
聞こえてくれれば良いな、と思う。
きっとその声は届いた。
そうして僕は崩れゆく世界に別れを告げた。
さよなら。
僕は取り戻しに行く。
新たな世界を。
時を超えて。
どんな壁もぶち破って。
手を伸ばせば届く距離だ。
ならもう止まる必要なんて無いだろう?
そうして僕は目を開いた。
×
どれだけ歩いていただろうか。
この何もない世界を。
そこには誰も居ない。
何も見えない。
何も聞こえない。
暑くも寒くもない。
ただ僕はずっとこんな世界を歩いていた。
どれだけの時間が経ったのだろう。
しかし時間すら存在しないこの世界でそれを考える事に意味はない。
あくまでこの世界の時間というのは僕の主観によって決定される。
もっとも体感では半年近くこうしていると思う。
もしかしたらもっと長いかもしれないし短いかもしれない。
そもそもそんな事を考えるのはあまりにも無駄なのだが。
何もないといってもどうやらこの世界というのは僕の精神に応じてその姿かたちを変える。
記憶を元に形作られているというのだろうか。
最初はかつて過ごしていた街の姿だった。
人が歩いている平和な街。
知り合いも居る。
しかしそれは偽りのもの。
ゲームのNPCと変わらない。
話し掛けても同じ言葉を繰り返すのみ。
いつしか僕は何も思い出さなくなっていた。
記憶も感情も押さえつけていた。
もしかしたらそれがこの旅を長くしていたのかもしれない。
しかしこれに終わりは見えなかった。
どこまでも続く闇。
1人きりの旅。
何かを探しているのはわかる。
何かを求めているのは覚えている。
しかしそれが具体的にはなんなのか僕は忘れかけていた。
霞がかった道の向こう。
そこに誰かが立っている。
しかしそれが誰なのかはわからない。
走ってそこに向かうがもう既に姿は消えている。
思い出す事は億劫だった。
何かに突き動かされて僕は暗闇をひたすら歩いている。
何も変わらない景色。
遠い記憶の中に居る誰か。
きっと彼女もこんな世界に居たのだろう。
しかし顔も名前も思い出せない。
だけど好きだったのは覚えている。
きっと僕はその人を探しているのかもしれない。
だけどこれがいつまで続くのか僕にはわからない。
もしかしたらこのまま終わらないかもしれない。
嫌だなぁ、と思う。
思うがもうそんな実感は湧いてこなかった。
具体的にそれを解決するにはどうすれば良いのか。
考えるのを拒否していた。
ただ歩いていく。
1人きりでずっと歩いていく。
しかしふと俯けていた顔を上げると人影が見えた。
僕は目を細める。
その影は2つあった。
頭に猫と犬の耳みたいなものが付いている。
一体誰だろうか、と僕は首を傾げた。
ひどく懐かしい。
探している人と同じくらい大切に思っていた気がする。
あの2人は……
その影はこちらに微笑んだ。
人懐っこそうな微笑みだった。
僕の心に何か温かいものがこみ上げてくる。
かつて毎日がこんな感じだったなぁと思った。
しかしそれが具体的にどんな日々だったのかは思い出せない。
いつかまた会おうね。
すぐに会えるから。
2人はそう言った。
その声が。
とても懐かしい。
猫耳の方が屈んで何かを置いた。
そうして犬耳と顔を見合わせてこくりと頷き合う。
2人はこちらに手を振った。
友達にバイバイをするかのように。
明日また遊ぼうと言っているみたいだった。
僕は追おうとした。
前にもこんな事があったと思う。
僕は名前を呼んだ。
前にもこんな事があったと思う。
しかし叫ぼうとしても肝心の名前が思い出せない。
2人はもう消えてしまっていた。
僕は力なく項垂れる。
あれは僕の心が生み出した幻だったのだろうか。
きっとそうに違いない。
諦観。
しかし彼女達が落としていったものはなんだろう。
僕は屈んでそれを拾い上げる。
鎖がついた銀色の手の平サイズの何か。
目を凝らすとそれがペンダントだとわかった。
いつか見たもの。
だがやはりそれが具体的にいつなのかわからない。
僕はペンダントの蓋を開く。
そこには何かが刻まれていた。
目を通す。
――夢に抱かれ、君を想う。
僕の目から一筋の涙が流れた。
透明な雫がペンダントの上に落ちる。
凍った心が融解していく。
失ったものが戻ってくる。
抑えていた感情が、記憶が浮かび上がる。
雫が波紋となって広がっていく。
阿形と吽形。
2人にありがとう、と口にする。
風が吹いた。
顔を上げると目の前に光があった。
眩しくて目が痛い。
しかし望んでいたゴールが遂に現れた。
そうだ。
僕は祀の元に戻る。
皆一緒で。
僕は目を瞑り、深呼吸する。
そうして目を開く。
光の先を見通す。
その先にははじまりの場所がある。
しかしこの期に及んで僕は足が竦んでいた。
この先に行くのが怖かった。
ずっとこの時を望んでいた筈なのに、僕は一歩を踏み出す事を恐れている。
この先に進んでまた辛い思いをするのではないか。
結局また同じ失敗を繰り返すのではないか。
もしかしたらまた悪性が彼女を苦しめるのではないか。
またひとりぼっちになるのではないか。
もう2度とこんな経験はしたくない。
悲しい思いなんてごめんだ。
悲しい思いをさせる事だって。
そうしてふと何かに気付いた。
背中に皆の気配を感じた。
ずっと僕を見守ってくれたのか。
2人が背中を押したのを感じる。
それは決して幻ではなかった。
待っててくれ、と僕は言った。
みんなが頷いた。
僕は微笑んだ。
ならもう心配する必要はない。
僕は一歩を踏み出した。
×
そこは朧想街だった。
駅前の広場。
僕が最初にやってきた場所。
しかし違うのは一番最近の世界では黄昏時だったのが今は朝日が出た頃だと言う事。
青とオレンジのグラデーションが美しい。
人は僕以外に居ない。
しかしそれは存在しないのではなく単に眠っているだけだろう。
今は春らしく桜の薄紅色がちらほら見受けられる。
鳥のさえずりが耳に届く。
そろそろ街も活気づき始めるな、と思った。
とても懐かしい。
まだ誰とも関わっていない時。
しかし心配はいらない。
きっと繋がっているから。
僕は記憶を頼りに神社へ向かう。
そこには祀が居る筈だ。
心に傷を負った龍が。
鳥居を潜り、閑静な境内に入る。
階段を上るのがたいへん疲れた。身体もリセットされているし仕方ないと言えるだろう。
そうして僕は本殿を目指す。
名前を呼んだ。
あの時はおーい、とか言ってったけ。
しかしこのときはまだ彼女には名前が無いしな、どうしよう。
まぁ良いか。
しかしガタガタと物音のする本殿からは誰も出る気配がない。
僕は溜息を吐いた。
そうしてゆっくりとその扉を開く。
びっくりと目を開ける龍の姿が見えた。
目に涙を浮かべて震えている。
僕は感嘆の溜息を吐いた。
安心した。
心から安心した。
一筋の涙が流れた。
どうやらかなり涙腺が緩くなってしまったらしい。
慌てて涙を拭う僕に彼女は首を傾げた。
どうして泣いているのですか。
彼女はそう尋ねた。
僕は何も言わずにゆっくりと彼女に近付く。
しかしもう彼女に怯えはなかった。
彼女を優しく抱き締める。
ただいまと言った。
彼女はおかえりなさいと言った。
とても小さな声だったがそれははっきりと聞こえた。
自分で言った事がわからないらしい。
しかし彼女もぽろぽろと涙を流していた。
ぎゅっと強く僕の体を抱き締める。
胸に顔を埋めて嗚咽した。
僕も彼女を更に強く抱き締める。
壊れてしまいそうだった。
彼女の華奢な身体はとても小さく感じた。
もう絶対に離さない。
僕は言った。
彼女は頷いた。
僕達は一緒に目を覚ました。
この時。
この場所で。




