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十八歳の誕生日を数日後に控えたある午後。
カティアは、ルナ離宮の自室でイレーネと静かに向き合っていた。
執務や学問の合間に設けられた、久しぶりの穏やかなお喋りの時間――
だが、カティアの表情はどこか沈んでいる。
「……イレーネ。少し、聞いてもいいかしら」
「もちろんですわ、カティア様」
イレーネは変わらぬ優しい微笑みを浮かべる。
カティアはそっと手元のティーカップを見つめたまま、小さく息を吐いた。
「私……母になる自信が、あまりなくて……」
その呟きは、とても弱々しく、けれど正直なものだった。
「今まで母親に育てられた記憶がありませんの。鉱石宮の下働きの方々にはお世話になりましたけれど……。母に抱かれて眠ったり、髪を梳いてもらったり、そういう思い出がなくて……」
カティアは胸元に手を置き、そっと俯いた。
「そんな私が、母親になれるのかと考えると……」
イレーネは静かに頷き、柔らかな声音で返す。
「お気持ち、よく分かりますわ。……私も母を早くに亡くしましたけれど、ほんの少しだけ母と過ごせた時間がありますの」
「……どんなお母様だったの?」
「優しい人でした。寝る前にお話をしてくれたり、髪を結ってくれたり、転んだらすぐ抱きしめてくれて。そんな何気ない時間が、今でも私の宝物です」
カティアは目を伏せ、微かに唇を噛む。
それでも、イレーネは明るく微笑んだ。
「ですが――それは、“経験があるから母になれる”というわけではありませんわ。カティア様は、もう何年も他者を気遣い、大切にすることを学んでこられました」
「……イレーネ」
「殿下がそばにいらっしゃいますし、私たちもおります。――カティア様なら、きっと素敵なお母様になられますわ」
その励ましに、カティアの胸の中に少しずつ温かな光が差し込んでいく。
「……ありがとう」
その時だった。
「それにしても……」
イレーネが微笑みながら、さらりと言った。
「殿下とカティア様は、ずっと前から夜もご夫婦の営みを重ねていらっしゃいましたもの。きっとお二人なら、自然に――」
カティアは思わず目を瞬かせる。
そして、気がついた。
カティアは咄嗟に口を噤む。
今何かを言葉にすれば、殿下のこれまでの配慮を他人に暴露してしまう――
それは、ユーリが決して望まぬことだと即座に悟ったのだ。
誰にも知られぬように守り続けてくれていた愛情。
周囲には既に夫婦関係にあると誤解させたまま、自らは理性を貫いてくれていた。
胸が熱くなり、瞳が潤む。
(これほどまでに……私を大切にしてくださっていたのですね)
言葉にはせずとも、カティアはそっと胸元に手を当て、
静かに、ユーリへの想いを強く抱きしめた。
(ユーリとなら、私はきっと、大丈夫――)
こうして、十八歳を迎える前夜の決意が、静かに固まっていくのだった。




