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「……海、ですか?」
私は微笑みながらカティアの言葉を反復した。
「はい。あの……ずっと書物でしか知らなかったので。もし叶うなら、一度だけ見てみたいのです」
彼女は少しだけ不安そうに、けれど期待に満ちた瞳でこちらを見上げてくる。
(……可愛い)
即答したい気持ちを抑え、私は穏やかな声で応じた。
「もちろんだよ。準備はすぐに整えよう」
高貴な身分の女性が無闇に外を出歩くのは、この国では珍しい。
だが、幸いにも王子である私が随行するならば、それも許される範囲となる。
◇ ◇ ◇
ルナ離宮を発って数時間後――
私たちの乗った馬車は、人の少ない海沿いの高台へと辿り着いた。
王都からそう遠くはないが、ここまで来れば余計な目もなく、ゆったりとした時間を過ごせる。
「着いたよ、カティア」
扉を開け、手を差し伸べる。
カティアは緊張気味にその手を取り、馬車から慎重に降り立った。
そして――
「……これが、海……」
カティアは一歩前に進み、ゆっくりと目の前に広がる蒼の大地を見渡した。
どこまでも続く青い水平線。
柔らかく波打つ音と、潮風がそよぐ空間。
その光景に、カティアは瞳を輝かせていた。
「書物で読んだ通り……いえ、それ以上に、綺麗です……」
「……そうか」
私はその横顔をそっと見つめた。
知識では幾度となく目にしてきたはずだ。
けれど実際に見るのは、これが初めて――。
(……やはり、カティアは今までどれだけ制約の中で生きてきたのだろう)
今、彼女の見ているこの光景は、当たり前のように私が幼い頃から見てきたものだった。
だが彼女にとっては、ようやく手にした新しい世界。
その事実が、胸の奥に微かな痛みとして残る。
「ユーリ……」
「ん?」
カティアが振り返り、柔らかな微笑みを向けてくる。
「連れてきてくださって……ありがとうございます」
「……ああ。君の願いなら、いくらでも叶えたい」
私は素直にそう答え、カティアの肩をそっと抱き寄せた。
潮風が彼女の髪を揺らし、陽光の下で宝石のように輝く。
その美しさに、また一つ、私の胸は締め付けられた。
(……君の世界を、これからもっと広げてあげたい)
彼女の傍らに立つこの幸せを、私はしみじみと噛み締めていた。




