18
夕刻。カティアはいつものようにルナ離宮の執務室を訪れていた。
「ユーリお兄様、本日の講義進捗をご報告に参りました」
いつもの柔らかな声だった。
私は、いつも通り微笑んで迎える――はずだった。
だが今日は違った。
机上には、つい先ほどまで読み込んでいた二通の縁談書簡が開かれたままだった。
カティアは室内に入り、ふと視線をその文面へと滑らせる。
私は慌てて手を伸ばそうとしたが、既に彼女の瞳は短い文章を読み取ってしまっていた。
「……縁談の申し出、でございますか」
静かな声だった。驚きや動揺よりも、むしろ冷静な確認の響きがあった。
私は小さく息を吐いた。
「君に見せるつもりはなかった」
「ですが、もう読んでしまいました」
微かな苦笑を浮かべつつ、カティアはゆっくりと言葉を続ける。
「ユーリお兄様。僭越ながら、アレクシス殿下のご提案は――検討に値すると存じます」
私は無言のまま、彼女を見つめた。
カティアは、感情のないような淡々とした声音で続ける。
「アルセリア王国は、我が国にとって重要な友好国です。王弟妃殿下からの推挙は、信頼の証と受け止めるべきかと存じます。お相手の家柄も安定しておりますし、外交上の価値も十分にあります」
その言葉には、まるで自己の感情を切り離したような冷静さがあった。
「……君は、自分の人生を、そんな計算だけで決められるのか?」
私はようやく声を絞り出した。
カティアは静かに瞬きをし、わずかに視線を伏せる。
「私は王家の人間です。こちらに引き取られてから教わりました――王族は常に、自分の立場をわきまえて役割を果たすべきだと」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥が酷く軋んだ。
私は席を立つ。
気付けば、カティアの目の前まで歩み寄っていた。
「……君には、離れてほしくない」
声が震えそうになるのを抑えきれない。
「君を、他国の王子や貴族の隣に並ばせたくない。誰にも渡したくない……!」
自分でも驚くほど幼い言葉だった。
幼子のように縋っているのが分かった。
カティアの瞳が揺れた。
驚きと戸惑いが、その奥底に浮かんでいる。
だがすぐに彼女は冷静さを取り戻し、周囲を一瞥する。
「……ユーリお兄様。場所を移しましょう。執務室は少々耳が多いです」
そう告げると、控えていた侍従たちを人払いし、私を私室へと導いていった。
私は、ただ彼女の後ろ姿を見つめながら歩くしかなかった。
(……理性が軋みはじめている)
静かに、けれど確実に――。




