「明日」が来るなんて、当たり前のことだと思っていた。
今日は明日に繋がっていて、明日は明後日に繋がっている。
そして、今日会えた人には、明日もまた会えると信じて疑わなかった。
――彼女と会うまでは。
*
扉を開けると、夕焼け空とヒグラシの鳴き声が近くなった。夏独特のなまぬるい空気が、むわりと全身を包み込む。
「翔真! 今日あげたメガリュー、明日までに進化させとけよ!」
友達のだいごが、後ろから声をかけてきた。もちろん、と俺は答える。
「そっちこそ、おれのあげたゲンリュー、ちゃんと育てとけよ」
「おう。明日のバトル、楽しみにしてるぜ。翔真」
「おれも! 絶対負けないからな」
お互いの携帯ゲーム機を見せ合って笑いあう。
そして、いつもの言葉を言う。
「また明日な」
「また明日ー」
手を振りながら、だいごの家の扉を閉める。ゲーム機をボディバッグにきちんとしまって、おれは走り出した。
時刻は十八時半。これ以上遅くなると、また母さんにグチグチ言われてしまいそうだ。いつも早めに帰ろうとは思っているんだけど、友達とゲームを始めるとつい盛り上がってしまって、こんな時間になってしまう。
幸い、だいごの家とおれの家は近い。自転車もいらないような距離だ。……まあ、だから余計に長居してしまうんだけど。
スーパーの前を通り過ぎると、すべり台しかない小さな公園が見えてきた。最近は誰にも使われていないのか、すべり台の周囲には背の高い雑草が生い茂っている。
――毎日こんなに暑いんだ、誰も外でなんか遊ばないよな。
そんなことを考え公園を通り過ぎようとした時、足元に何かが落ちているのが見えた。
「ん?」
足を止めてかがみこむ。
落ちていたのは、小さな紙の束だった。
長方形の紙が何枚か、銀のリングでひとつにまとめられている。この前お母さんが買ってきた、単語帳というやつにそっくりだ。
「あんたもゲームばっかりしてないで、たまには勉強しなさいよ。ほら、これならゲーム感覚で勉強できるんじゃない?」
そう言って渡された単語帳には、小学四年生が習う漢字がみっちりと書かれていた。
今となってはあれをどこにしまったのかすら覚えていない。結局一度も使わなかったし。
――誰かの落とし物か。なんの勉強してたんだろ。
おれはなんとなくその単語帳を拾い上げた。そして首を傾げた。
水色の表紙に、印刷したみたいな綺麗な文字で、こう書かれていたからだ。
「『ゆめきっぷ』……?」
どうやら勉強の道具じゃなさそうだ。
おれは雑草だらけの公園に目を向けた。遊んでいる子供は見当たらない。でももしかしたらついさっきまで小さな子供が電車ごっこでもやっていて、これを切符に見立てて遊んでいたのかもしれない。
あんな公園でも、まだ遊びたがるやつがいるんだな。
おれは落ちていた場所に単語帳――『ゆめきっぷ』を戻そうとした。その時だった。
「あらあ、榊さんとこの翔真君じゃない!」
背後から聞こえた声にぞっとした。
愛想笑いを顔面に張り付けて振り返ると、想像した通りの厚化粧がそこに見えた。スパンコールが散りばめられた紫色のシャツ。持ち手がチェーンになっている派手なバッグ。
おれの家の近所に住んでいるカナツカさんだ。
この人の耳に入ったら最後、翌日には近所中に噂が広まると評判の、通称『拡声器オバサン』。だから間違っても変なことは言えないし、変なところも見せられない。
カナツカさんは、品定めするみたいな目をおれに向けた。
「翔真君、いまからおうちに帰るのぉ?」
「は、はい……」
「あらそうなのぉー。夏休みなのに、遅くまで勉強してて偉いわねえ」
「え?」
カナツカさんの視線の先を見る。
単語帳そっくりの、『ゆめきっぷ』。
「あ、ちが、これは――」
「おばちゃんはこれから、半額シールのお惣菜を買いにいくのよ。ほら、あそこのスーパーってこのくらいの時間から半額商品が増え始めるでしょ。それに今日はお茶が安くてねえ。それも我らが静岡県の玉露よ、玉露! ……って、翔真君に言ってもまだ分からないかしらねえ」
カナツカさんが豪快に笑う。ひぇっひぇっひぇっ、と息を吸うような奇妙な笑い方だ。厚く塗られたファンデーションが、少しだけヒビ割れた。
笑い終わったカナツカさんは「はあーあ」と息を吐いた。
「お勉強の邪魔して悪かったわねえ。おばちゃんもそろそろ行くわ」
「え? あ、だからこれは――」
「気を付けて帰るのよー」
カナツカさんが、しわの目立つ手を振ってくる。おれは手を振り返すしかない。
「……しまったなあ」
カナツカさんの姿がスーパーに消えたところで、おれは呟いた。手の中の『ゆめきっぷ』を見る。誰が落としたのか分からないそれは夕日を受け、銀のリングが光っている。
本当ならば落ちていた場所に置いて帰りたい。けれど今、カナツカさんにこれを見られてしまった。ここに置いて帰ったら、おれが落とした――下手すればポイ捨てしたとカナツカさんは勘違いするかもしれない。そうなれば、翌日には「ごみをポイ捨てする榊さんとこの翔真君」として近所中の噂になってしまうだろう。
公園のやぶに捨てて帰ろうか。でもそうしたらますます、ポイ捨てっぽく見えてしまう。
――仕方ない、とりあえず家に持って帰るか。
おれはしぶしぶ、『ゆめきっぷ』をボディバッグに入れた。
*
晩御飯を食べて、お風呂に入る。そこから寝るまで自室でゲームをするのが、おれのルーティンだ。
今日は、最近発売されたゲーム『ドラゴントレーナー』、通称ドラトレをプレイする。小さな子供ドラゴンをつれて旅をし、敵を倒してレベルアップさせることで、たくましいドラゴンに進化させることができるゲームだ。一人で遊べる「ストーリーモード」をはじめ、ドラゴンを交換する「交換モード」、世界中の人と通信対戦をする「対戦モード」まである。
「よいしょっと」
おれはボディバッグをベッドに載せた。
今日だいごに交換してもらった、レア度の高いメガリュー。あれを今晩中に、伝説級のドラゴンまで育てあげて、明日のだいごとの対戦に備えなければならないんだ。もたもたしていられない。
携帯ゲーム機を取り出すため、ボディバッグのジッパーを開ける。すると、ゲーム機よりも先に紙の束がおれの足に落ちてきた。
「……あー」
公園前で拾った『ゆめきっぷ』だ。ゲームのことばかり考えていたせいで、すっかり忘れていた。
――明日、元の場所に戻してあげようか。でもこの単語帳、そんなに大切なものなのかな。
おれはなんとなく、『ゆめきっぷ』の表紙をぺらりとめくった。そして思わず「おお」と声を漏らした。
表紙の次の一枚は、電車の切符そっくりに作られていた。
電車というよりかは新幹線に近いかもしれない。一番上に「特別乗車券」と小さな字で書かれている。自由席。禁煙。日時の指定はなくて、肝心の発着駅については
『あなたのゆめ→どこかのゆめ』
となっていた。
これが全部で七枚ある。
「……なんだそりゃ」
おれは笑った。ただの電車ごっこにしては、よくわからない設定だ。もしかしたらそういうテレビ番組でも流行っているのだろうか。
ベッドの端に『ゆめきっぷ』を放り投げようとして、表紙の裏に何か書かれていることに気付く。投げるのをギリギリでやめて、もう一度『ゆめきっぷ』に目を落とした。
表紙の裏にはやたらと細かい文字で色々書かれていた。
・『ゆめきっぷ』は眠っているときに効果を発揮する。
・『ゆめきっぷ』を使いたい日は、寝る前にパジャマのポケットに『ゆめきっぷ』をいれておくこと。
・『ゆめきっぷ』を拾っても、警察に届けなくていい。拾ったあなたが使ってもいいし、他の誰かにあげてもいいし、捨ててもいい。
・使用期限なし。
・リングから外されたきっぷは無効。
「……凝ってるなー」
特に、『リングから外されたきっぷは無効』っていうのがそれっぽい。
おれは今度こそ『ゆめきっぷ』を放り投げようとした。しかしその時、
「翔真ー? あんたまたゲームばっかりしてるんじゃないでしょうね」
パジャマ姿の母さんが部屋に入ってきた。お風呂あがりらしく、濡れた髪の毛をタオルでガシガシふいている。おれはゲーム機の入ったバッグを慌てて隠した。
「してないよ!」
「本当に? じゃあ夏休みの宿題は? ちゃんとやってるの?」
「うるさいなあ、やってるってば!」
やってないけど。
「あんまり夜更かししてたら幽霊が来るんだからね。さっさと寝なさいよ」
十歳のおれには効果の薄い脅し文句を言って立ち去ろうとした母さんは、あれ? といった表情でおれの手元を見た。
「翔真それ、もしかしてお母さんのあげた単語帳?」
「え?」
『ゆめきっぷ』のことだ。また単語帳と間違えられている。
「やだ、本当に勉強してたの? 珍しいこともあるわね」
「う、うん、まあね。……わかったら早く部屋から出て行ってよ」
「ごめんごめん。いやー、使ってくれてるならあげたかいもあるわー」
ごくろうごくろう、と笑いながら、母さんは部屋から出ていった。次いで、ぶおーとドライヤーの音が聞こえてくる。
きっとこのあと、母さんはお気に入りのクイズ番組とドラマを観て、寝室に行くはずだ。寝室に行く前にこの部屋を覗きに来るだろうけど、その時に寝たふりさえしておけば、夜更かししていてもバレない。
父さんは、おれの部屋に入るときはいつもノックしてくれるし、返事をするまでは絶対に入ってこない。それに、ゲームをしていても母さんほどガミガミ言わない。
「よーし、やるぞ」
おれは『ゆめきっぷ』をパジャマのポケットに入れ、ボディバッグからゲーム機をひっぱりだした。




