日本は、戦う前から、アメリカに支配されていた (1)
ネウヨは、よく、戦前の日本を、素晴らしい社会だったと、言いたがります。確かに、ある立場の人達にとっては、その通りです。
中には、戦前の日本を民主主義だと言う人さえもいます。
でも、当時の人達は、
アメリカ軍によって、押し付けられたもの
を、民主主義と呼び、
それよりも前のものは、たとえ民主主義的なものであっても、共産主義と呼ぶのです。
だから、右翼の共産主義者もいるのです。
思想の時代的流れを、
共産主義>軍国主義>民主主義
と、捉らえているのです。
戦前の日本を民主主義と表現するのは、
日本は、戦う前から、アメリカに支配されていた
という意味になり、右翼としては、どうかな、と、思いますよね。
では、時系列的には、ポツダム宣言よりも前になりますが、戦前の日本の社会について、書いていきたいと思います。
また、第一話に出て来た、巣鴨プリズンにぶち込まれた、親族の話です。
その人が戦争犯罪人になったのは、懲罰徴集を受けたからです。
懲罰徴集になったのは、最初に来た赤紙を無視ぶっこいたからです。
現代の人からすれば、
赤紙を無視するなんてありえない
と、思われるかもしれませんが、事実です。
ただ、最初の徴集の時、その人は、海軍医学校の文官だったのです。身分は大尉格。
海軍大尉のところに、陸軍から一般兵の徴集が来た
と、思ってもらえば、よいと思います。
戦前の日本は、こんな社会だったのです。
第一話で、
戦争犯罪人の拘束
とか、
証拠の確保
とかに、大騒ぎしているのは、こんな日本にアメリカ人がやって来て、
どうやって、
犯罪人を見つけ出して、
証拠を用意する
つもりだったんでしょうね?
それまで戦争していて、全然交流が無かったわけですから、日本の具体的な細かい部分なんか、知るわけないですよね。
それまで戦争していて、日本人を何百万人も殺したのだから、日本人の協力は全く得られない、という前提ですよね。
しかも、それまで戦争していて、日本の社会は、空襲でボコボコで、無茶苦茶だったんですよね。
はっきり断言します。
無理。
話を元に戻しましょう。
赤紙を無視したのは、戦争に行きたくなかったからです。戦争そのものに反対していました。反対していたのは、人道的な理由で、アメリカが相手だから勝てないかも、ではないのです。
もちろん、海軍に話をつけていて、いざとなったら、身柄を貰い受けてもらえることになっていましたが。
でも、その海軍医学校も、辞めてしまいました。
理由は疎開のためです。東京もヤバくなったので、田舎に逃げたのです。
私は、学童疎開という言葉は知っていましたが、
都市部は空襲でヤバいので、安全な田舎に、せめて子供だけでも逃がそう
それが学童疎開だと思っていたのです。受け入れ先の田舎にも、当然キャパがありますからね。
まさか、
学童なら疎開しても良いけど、大人はダメ
という意味だとは、思ってもいなかったのです。
何故なら、私の父親も疎開していたからです。しかも二回も。
私の父は、大正十四年生まれで、終戦の年に二十歳になりました。
でも、戦争に行ってないどころか、徴兵検査も受けていません。
兵器学科
だったから。こう書けば、納得いくかもしれません。特に、
「いのこり(医農工理)」
という言葉を知っている人には、説得力があるでしょう。兵器を作る人を前線に出してどうする、といえば、その通りかもしれません。
でも、問題があります。
私の父は一期生だったのです。
戦争中に、突然、兵器学科が出来、
そこに行けば戦争に行かなくて済む、
という情報を得た私の祖母が無理矢理入れたのです。
私の父は文系でした。後に、数学の教員になったのですが、同僚から社会の教師だと思われていたそうです。
純粋に戦争を避けるために兵器学科に行ったのです。
これが出来る人は限られていました。
まず、旧制中学に行ってないと無理です。
旧制中学は、基本的には、お金持ちの子供がいくところでした。
成績優秀かと聞かれると、私の書いた
「経験的教育論」第一話
をお読み下さいとこたえておきましょう。
もちろん、お金がなくても、成績優秀で行けた人はいますよ。
でも、そういう人は悲惨だったそうです。
弁当の時間が。
そこから、兵器学科に進学するとなると、さらに、お金がかかります。生活費とか、本代とか。
借金まみれになります。
でも、実際は、戦後のハイパーインフレのおかげで、返す時は大楽勝で、一括返済だったそうですが。
まあ、お金持ちには、素晴らしかったんですよ、戦前の日本の社会は。
ちなみに、父の地元では、父が旧制中学を卒業する時に、戦争中なのにもかかわらず、医専ができたそうです。
医専は、現在の地方の国立大学の医学部で、
「いのこり(医農工理)」
の「い」ですから、兵器学科ほどではないにしろ、戦争を避けることが出来ます。
話を元に戻しましょう。
私の父は、兵器学科にトップ合格し、初代総代になりました。
でも、兵器のことは何も知りません。兵器の話をしたことが無かったですから。
勉強してないんです。
勤労動員で東京の工場に行ってましたから。
戦前の日本は、学歴社会で、その名残が、国家公務員のキャリア官僚だと思ってもらえばよいでしょう。
日本が戦争に負けたのは、学歴社会のせい
という考えのもと、戦後は、戦前から比べれば、学歴がだいぶ軽視されるようになりました。
学歴を問題にすることが、まるで、悪いことであるように、言われることさえもあります。
私の父は、兵器学科でしたから、工場では、いきなり管理職です。
工場長
でした。部下が五千人ほどいたそうです。人生で一番偉かった、と、言ってました。
現場は経験してないです。
そんな父のもとに、祖母から電話が来ました。
東京で大空襲があるらしいから、帰って来い
と。
父は病気を理由に地元に戻ってしまったのです。
地元に帰った、その日が、東京大空襲の日だったそうです。
父の実家は、県庁前大通りと、駅前大通りがぶつかる交差点にありました。地元の人なら誰でも知っている好立地です。
でも、戦時中は、最悪の場所です。
ここも危ない、ということで、田舎に引っ込むことになりました。
田舎に着くと、また、すぐに空襲がありました。
私は、この話を子供の頃聞いて、
運が良いんだ
と、喜ぶだけでした。
父の部下は五千人いて、東京の軍需工場にいました。東京大空襲の時に、犠牲になった方は必ずいるはずです。
工場長は、空襲の前に逃げていたのですけど。
何故、学童でもないのに、疎開が出来たのでしょうか?
家を二軒以上持っていたからです。
実際には、四軒ありました。
疎開ではなくて、自宅に戻っただけなのです。
明治の元勲の子孫が、長州藩なのにもかかわらず、東日本の山間地にいるのは、こういう理由です。
私の父は、自宅の屋根に登って、空襲で燃える街を見ながら、アメリカ軍が降りて来るのを待っていました。日本刀でたたっ切るつもりだったのです。
竹やりで戦車に挑む日本人
ではないですが、
兵器学科の初代総代が、アメリカ軍に日本刀で挑もうとしていたのです。
こんな兵器学科、戦地に行かせないで、温存する価値がありますか?
戦争が終わると、すぐに、父は、繰り上げで、卒業になりました。
秋にです。
兵器学科は、当然、もうないです。
兵器学科は、戦争に勝たなければ、存続すら、出来ないのです。




