死者が飲むワイン
領主は書き物机に突っ伏し拳を握りしめている。ボールドウィンの苦悩をよそに、俺は首をかしげて考え込まざるを得なかった。この事態が司祭殺しとどうつながるというのか? そもそも関連性のある事件なのか?
騎士オウェインは、フランドル伯の家中ではおよそ当主その人に次ぐ立場であるように思われた。夏には船一隻を指揮して俺たちをイングランドに送り届け、サウサンプトンまで親書も届けている。それほどの信頼と処遇を与えられた男が、なぜこのタイミングで消えたのか? そしてユーライアは――彼女のことを俺はほとんど知らない。
「フランドル伯様。少しうかがいたいのですが」
「……何なりと訊くが良い」
「ユーライア殿は、ラウル様のために呼ばれた乳母ということで相違ございませんか」
「うむ。あれを産んだ後、奥は床に就いたままになってしまってな。それで近隣に布令を出した」
ジュディス王女はラウルを産んで一年ほどで他界している。乳母が招かれたということは、本人には授乳できるほどの体力が戻らなかったに違いない。
ラウルは今6歳かそこら――ということは、あの地味で年齢のよくわからない婦人もまだずいぶんと若いわけだ。
乳母が務まる以上はその女自身にも、生まれて間もない子供がいるということになる。貴族や領主ともなれば、多くの場合その子供も将来何がしかの形でその家に仕えることになるはず――比較的恵まれた立場で。
だが思い返してみれば、俺はこの城でそれらしい子供を見ていなかった。
「ユーライア殿のお子があられたはずですが、その子は?」
「ああ……ラウルと一緒に乳を含ませた女児がおったのだが、一年ほどで死んでしまった。どうも、生まれつきの病気があったらしいのだ。可哀そうなことをした」
ボールドウィンはそういってため息とともにまた顔を覆った。
「……その子供の父親、つまり彼女の夫はまだ存命でしょうか」
「いや。シャルル王の従士を務めていたが、我が子の顔を見ずに戦で命を落とした、と聞いておる」
となると、様々な可能性が出てくる。たとえば、オウェインとユーライアが密かに恋仲であった、とか。
あり得ない話ではない。だが、それをワイン樽の毒や司祭の死と結びつけるには、いささかの飛躍が必要になってくる。
それにここは城と言っても、ごく単純な構造の要塞に質素な――恐らくはカール大帝以来のフランク王国の宮殿に範をとったものではあろうが――居館をくっつけたような、原始的なものだ。男女がひそやかに恋をはぐくみ実らせられるような、プライバシーを守れる場所はほとんどない。二人がそういう関係であれば、ボールドウィンが察知していないはずもなさそうだった。
「少々立ち入ったことをお尋ねしますが、フランドル伯様はユーライア殿とその、何かこう、いわく言い難いと申しますか……」
「ああ、何を言いたいかは分かる。だが私は奥と死に別れて後は、厳しく身を慎んできたのだぞ?」
「そうでしょうね」
夏にラウルがイレーネに甘えついたときのことを思い出す。あの時彼は、イレーネを『新しい母様』なのではないかと、期待を込めて見つめていたのだった。つまり、フランドル伯は子供たちが乳母を『母親』として認識するようなやり方では彼女に接していないのだ。
「情報が足りない。二人の事をもう少し知る必要がありそうだ……申し訳ありませんがフランドル伯様、私はいったん失礼します」
「私に何か助言をしては呉れぬのか」
「残念ながら、今の段階では何も申し上げられません」
「……誤解しないでくれ。オウェインとユーライアがわりない仲であれば、それはそれで私は構わんのだ。むしろ歓迎する。ユーライアはまだ若いし、オウェインは真面目すぎて浮いた話の一つも聞かん……あの二人が誰とであれ家庭の幸福を得てくれれば私も領主として心強いというものだ。だがこんな……こんな忌まわしい出来事のさなかに姿を消してしまうとは」
「ご心労、お察しします」
俺は彼の消沈ぶりに意外なものを見る思いだった。指摘すれば激怒を招くに違いないのだが、どうやらボールドウィンは、二人に依存心を抱いているのだ。
混乱や苦境の中にいるときにその辛さを分かち合い支えてくれる、信頼に足る人間がそばにいて欲しい――それは誰しも抱く渇望だが、ともすれば上位者はそうした相手を得ることが難しい。
しかし、俺にはどうしてやることもできない。できるのは知恵を絞ってこの事件を解決することだけだ。俺自身のためにだ。
「私はこれから、城内の女たちにあの二人のことをもう少し訊いてみます。女人の目からはまた違った物が見えているかもしれません」
「そうか……だが急いでくれ。このまま狩人たちがあの二人を連れて戻るようなら、私は……」
「その結論を出すのはまだ早計というもんです。それに居なくなったのは彼らだけではありませんよ」
「何だと?」
(あ、しまった)
俺は失言を悔やんだ。ビョルンのことはピーテルの部下たちから直接言上させた方が、心証がよかったはずだ。だがもう引っ込めるわけにもいかない。
「ワインを運んできた商人がいましたね。今は塔に入れられてますが……あの男の部下にビョルンという用心棒がいたのです。彼も姿を消してます」
「ビョルン? デーン人の名のようだが」
「はい。元はイエファーの船乗りだそうで。少し前に雇った、なかなか腕の立つ男だとか」
ボールドウィンは困惑した表情を見せた。
「いかにも怪しげな話だが……一人なのだろう?」
「ええ」
「デーン人と言っても別段、悪魔や怪物ではない。初めて入った場所で一人姿をくらませたところで、なにか危険があるとも思えんが……よろしい、その件は後ほど商人を――ピーテルといったな――引見して問いただしてみるとしよう」
急に目下の関心ごととは別の話を聞かされて、領主の頭はそれなりに冷えたらしかった。
「そうしてやれば彼の部下たちも安心することでしょう。ついでに、雨露をしのげる場所をあの男たちにも与えてやってください」
「ああ、それは気が付かなかったな。わかった」
俺は丁寧に退室の挨拶をすませ、ボールドウィンの部屋を出て北棟へ向かった。渡り廊下は二階だけを繋いでいて、一階の部分には石組みのアーチが3つほど並んでいる。手すり越しに見える西の空は雨に煙って暗く、その下にはいまだ斧入らずの原生林が、赤ん坊の逆立った髪の毛のような、ぼんやりとしたまばらな輪郭を浮き上がらせていた。
「まだ止みそうにないな、これは……スノッリたちはとんだ災難だ」
俺たちに与えられた北棟の、例の壁画の部屋に立ち寄る。イレーネも丁度戻ってきていて、俺たちは部屋の前で軽く抱擁を交わした。
「やあ、お帰り……何かわかった?」
「今のところ何もわからん、ということがわかった」
「何だい、それ」
イレーネは呆れた顔で、柔らかく握った拳をこちらの肩や背中にぶつけてくる。
現在分かっている情報をかいつまんで説明してやると、イレーネは目をいっぱいに見開いたあとで眉をしかめ首をひねった。
「あの二人が!?」
「……やはり驚くようなことなんだな?」
「うん、なるほど分からないや。僕はもうふた月ばかりここで居候を決め込んでるけど、あの二人については……オウェイン殿は有能で気持ちのいい男だし、ユーライアさんはあの子たちの優しい乳母、その程度しか見えてこなかった」
「まあそんなもんだろうなあ」
「あ、今ちょっと僕のこと、莫迦にしたな?」
「してないぞ」
何か変な方向へ飛び火しはじめたのに気づいて、俺は慌てて首を振った。どうしたことか。
「いいよ……分かってるんだ、僕が人の心に疎いってことは。バルディネスの悪だくみはフォカスに言われるまで気づかなかったし、ヤン船長と部下の間を銀貨で引き裂いてしまったのも僕だ」
「あー、俺の心は?」
「ああ、君はとても分かりやすいね。一緒にいるととても安心する」
頬を赤らめて明後日の方ヘ顔を向ける。
「それじゃあ、俺が莫迦みたいじゃないか」
憮然として見せる俺の肩を後ろから抱いて、彼女は耳元でささやいた。
「ごめんごめん。つまり……大好きだよ」
甘く心地よいやりとりだが、それに溺れてばかりもいられない。フィリベルトの検死も気になるところだ。そろそろフォカスの所へ行かなくては。
「そっちで何か分かったことはないかな」
「うん。昨晩何か変わったことを見たか聞いたかした人がいないか、尋ねて回ってたんだけどね。何せこの雨だ、日暮れより後に外に出ていた人は今までのところ誰もいなかった。それに、子供たちに聞いた内容から判断すると、あの子たちが寝るまではユーライアは同じ部屋にいたみたいだ。ここまでは大した情報はない。ただね……」
「ただ?」
「事が起きた後で考えると、ちょっと変なことがあるんだ。司祭とその一行は五日前にこの城に来たんだけどね。随員の助祭や侍祭たちは、与えられた部屋からろくに出てこなかったんだよ。そのくせ、一日に誰か一人は夕方になると北の城門の方へ行って、見晴らしのいいところで日没まで立ってた。その時は何か些細な罪の償いでもしてるのかと思ったんだけど」
「それは、確かに妙だな」
俺自身、キリスト教の祭祀や聖職者の仕事にはそれほど詳しいわけではない。だが地位ある司祭が遠地に赴く際に随行してきたのなら、礼拝や聴聞などに附随してなにかと仕事はあるはずだ。これはまた、調べるべきことが増えたか。
「わかった、これは注目すべき事だと思う……ありがとうイレーネ。で、こんな雨の中二度手間で済まないが、もう一つ頼みがある。城の――いや、近辺の村も含めてだ、ユーライアについて女たちの話を聞き集めてくれないか」
「分かった」
「俺はフォカスの仕事場に行って、フィリベルトの検死に立ち会ってくる……そうだな、小僧どもの誰かか、ヨルグあたりに会ったらフォカスのところへ来るよう伝えてくれ。ホルガーたちとすぐに連絡が取れるようにしたい」
「……荒事の予感がするかい?」
「分からん、だけどなんとなく嫌な感じだ。頼んだことと矛盾するようだけど、人気のない場所へはできるだけ近づかないでくれ」
「うん……嫌だね、こういうの」
「そうだな、うんざりだ」
軽く触れるようなキスを交わして俺たちはその場を後にした――別々の方向へ。
中庭の南西、ややがらんとした一角に、床だけが不釣り合いに石を敷き詰めて作られた小さな建物があった。元は家畜を肉にするための作業場だったらしく、すぐ脇には専用の井戸が掘ってある。それがフォカスの仕事場だった。
ブリュッヘに逗留して二か月余り。フォカスは軍人時代の医術の知識を活かして、整体師と薬屋のごた混ぜのような仕事でこの地の人々に貢献しているという。戸口の外で声をかけると聞きなれた男の声が返ってきた。
「来たか、トール。まあ入れよ、ちょっとひどい眺めだが吐くんじゃないぞ」
アルノルだ。彼自身はこういったことには専門外のはずだが、その知恵を見込んでフォカスが呼んだものらしかった。
言われてみればあたりには臓物めいた生臭い異臭がかすかに漂っているようだ。屋内に踏み込むと、はたしてそこにはフィリベルトだったものが台の上に横たえられ、窓から射しこむ薄明りに照らされていた。
フォカスはサクスに類する形のごく小さい刃物を片手に死体の上にかがみこんでいたが、俺の到着を知ると頭を上げてこちらへうなずき、左手で俺を差し招いた――あまりうれしくはない。
「やあ、息子よ。いささかぞっとせんありさまだが、近くへ来るがいい」
「は、はい」
彼は俺に頭蓋を切り開かれた哀れな犬を示した。
「まずはこちらだ。ワインに仕込まれた毒で死んだこの犬は、心臓の拍動がひどく活発になったらしい。鼻やのどなどに出血が見られる……こうした症状を示す毒は何種類かあるが、特定は難しいな。さて、問題のこの司祭殿だが」
そういいながら、フォカスはフィリベルトの胸元を指さした。そこには意外なほどに鍛えられた筋肉が盛り上がり、彼がかつて戦士だったことを裏付けていた。
「死因は毒ではなさそうだ。ここに明らかな傷がある」
彼が指示した部位には、肋骨を巧妙に避けた形で口を開けた、幅広い刺し傷があった。
「これは……剣ですよね?」
「うむ。正確に心臓の位置を貫いている所を見るに、武器の扱いに長けた成人男子の犯行だろう」
そういいながらフォカスは死体をごろりと裏返しにした。
「見たまえ。胸の中央から入った刃は、完全に後ろへ突き抜けたわけだ。これではひとたまりもない、ほぼ即死だったことだろう」
背中にはほぼ腹側と同じ大きさの傷。かなりの力で突き通したものらしい。それは北方人が使うものとおおよそ大差ないサイズの、幅広の剣が通り抜けたトンネルであるようだった。
「とするとわからんのは、なぜ殺した男をわざわざ毒ワインに漬け込んだか、だな」
アルノルが口ひげを捻りながらフィリベルトの人差し指をつまんで腕を持ち上げた。のど元にすっぱいものがこみ上げそうになる。
「彼の顔面にも注目しよう。死斑が出ているのがわかるかな?」
「おお、この紫色のこれか?」
フォカスとアルノルが妙に気が合う様子なのが、この場所のおどろおどろしい雰囲気を逆に助長していた。
「うむ。頭部にはあるが、体のほかの部位にはほとんど見られない」
フィリベルトの頭部全体に、鬱血したようなどす黒い色が現れている。それに反して体のほかの部分は、ワインで汚れているのを別にすれば、きれいなものだ。
「ってことは……」
昔読んだ推理物の記憶をさらえる。死斑は確か死後数時間、体内の血液が重力に引かれて下方に集まることで生じる。
(彼はやはり、あの樽のそばで死んだってことだな)
ふと、昨晩の記憶がよみがえった。夜更けに聞こえた、何か木製品が壊れる音。あれは間違いなく、樽の蓋が破壊された音のはずだ。
アルノルの疑念は確かにもっともだ。何故殺した相手をわざわざワインに漬けるのか。
死を確実なものにする? いやいや。心臓を貫いたのならもはやそれには及ばないはずだ。死者はワインを飲まない。そして、俺はふと奇妙なことに思い至った。
(樽に毒を盛ったのが、フィリベルト殺しの下手人だとは限らないぞ――)
なぜか先ほどまでそう思いこんでいた。だが、イレーネの証言がそこに別の可能性をもたらしたようだ。随員たちの奇妙な行動――
司祭一行に嫌疑をかけない理由がどこにあるか? あらゆる可能性を考えなければならないはずだ。奇怪なシナリオが頭の中に形をとり始めた――何かまだいくつかピースが足りない感じはある。だが確認すべきだ。
「フォカス。アルノル。彼の服はよく調べたかな? 服というか、持ち物だ」
「ああ……まだだな。確かにトールのいう通りだ。なにか出てくるかもしれんな」
俺は自身の提案を少しばかり後悔した――ワイン(しかも毒入りの)でびしょ濡れの僧服を手に取り、あちこちに手を突っ込んで探し物をする羽目になったからだ。
腰のあたりの小さな目立たないポケットを探った時、何かが指に触れて俺は小さく声を上げた。
つまんで引き出してみると、それは書き損じの羊皮紙を折りたたんだ小さな包みだった。二人にそれを指し示す。無言でうなずき合いながら包みを開くと、中には奇妙なものがあった。
金属光沢のある暗いブルーあるいは緑の輝きを帯びた、微細な破片。一瞬何かわからなかったが、ろうそくを近づけてよく観察すると、それが小さな昆虫のバラバラになった体であることがわかった。腹部を覆う硬い前翅。やや特異な形だが鞘翅目のようだ――つまり、甲虫の仲間だ。
(こいつは……)
子供の頃に読んだ昆虫図鑑や、ファーブルの「昆虫記」の記述が脳裏をよぎる。さらにもっといかがわしい本も。
「まさか、ハンミョウか……」
摂取すると尿中に排泄されて尿道を刺激するため、利尿剤や催淫剤として使用される有毒昆虫。容量、用法を誤ると中毒死もあり得るとされるそれが、目の前にあった。
祈念すべき100話目だというのにこんな中途半端なところで……申し訳なし。
スパニッシュフライの名でよばれる昆虫はツチハンミョウ科のゲンセイの一種ですが、馴染みのない名前なので時代劇などで登場する薬種としての呼び名「斑猫」をあてています。本邦で通常ハンミョウと呼ばれる「ナミハンミョウ(ミチオシエ)」は科が違うので別物。毒はありません。ややっこしいよね。




