第二章５話『大脱出劇』
そう言って殊音は少女を背負おうと前屈みになる。
しかし面識のない同性を相手に露零は急に羞恥心が込み上げてくると、そんな殊音の姿を見て指をもじもじとさせ始める。
しかし「他に方法がないでござるよ」と急かされると仕方なく彼女の背中にしっかりと掴まり、二人は本日二度目の断崖絶壁からの脱出を図る。
「ひっ、きゃぁぁぁぁぁぁああ！！」
殊音は大胆にも隠れ家のあった中間地点から勢いよく飛び降りると数十メートル下に伸びている木に衝撃を逃がしながら掴まり、そこからゆっくりと木を飛び移りながら慎重に下りていく。
(まさかそんな下り方をするなんて…)と思った時にはもう遅く、露零が「そんな下り方するなんて聞いてないよ」と不満を吐露した頃にはもう半分近くを過ぎた後で、殊音が自身の行動を顧みることはなかった。
その後、二人が断崖絶壁の最下層に到着するとそこには薄暗い謎の地下空間が広がっていた。
余所者の露零が知らないのも無理はない。
だが、この場所に関しては現地民である殊音も「はぇ～。下はこんな風になっていたんでござるなぁ」と言い、その存在を知らなければ初めて足を踏み入れるような口ぶりだった。
「川が流れてるよ。ねぇ、風月にも城下町とかあるの？」
水鏡と同じなら城を境目に人の住む「城下町」と豊かな『自然』が半々であるはずだが、今のところ城らしきものも町らしきものも目にしていない露零はついそんな質問を投げかける。
すると殊音は「あるにはあるんでござるが…」となぜか含みのある物言いで言葉を返す。
そんな彼女に「ねぇ、坂みたいになってるけどどっちに進むのがいいかな」と突然の選択問題を出題する。
すると殊音は「それは知ってるでござるよ。こういう時は尾根に向かういいって聞いたでござる」と聞きかじった知識をここぞとばかりに得意げに披露し、揺蕩う海月のように身を委ねるつもりでいた露零は彼女の意見に乗っかると二人の進路は決定する。
「じゃあこっちだね」
露零はそう言うと上流に向かって歩き出す。
落下地点から多少の移動はしているはずだが今いる場所が断崖絶壁の底にある洞窟のような空間ということに変わりはなく、現在地が不明ながらも歩いて人里に移動するだけで相当の労力を要するだろうことは二人とも理解している。
しかし地上に戻るにはこの方法しかないため、遠回りになることを承知で二人はこの道を進み続けることを迷わず選択した。
(心紬お姉ちゃんと一緒ならこんなことにならなかったのに…)
そんな失礼なことを考えていた露零だったが土地勘は殊音の方が遥かにあり、追手に出し抜かれたことを差し引いても案内人としての役割は十分果たしていると言えるだろう。
他にも心紬が引き続き案内していれば風月の者との関わりが希薄になってしまい、伽耶の言っていた≪心紬、その子にはできるだけ色んな物もんを見せたって≫という要望に反することにもなりかねない。
図らずとも二つの意味でよき方向に進んでいる露零は辺りを見渡し、今いる場所の特徴を確認する。
まずは最初に挙げた流川だろうか。
川は遠視を以てしても水源が見えない程長い距離続いていて、殊音に意見を求めたのがY字の合流地点だったことから上流は恐らくまだ先だろう。
次に二人が今いる場所だが、それは言うなれば天井のない洞窟が最も近い表現だろう。
崖上から見たこの場所は奥行きの見えない奈落の底ように思えたが、内側に落ちてみればしっかりと陽光が差し込んでいて外から見たイメージとは全く異なっていた。
こんな場所でも日が差していることから、いかに未開が異様な場所かがわかるだろう。
そんなことはさておき、二人は上流まで続く一本の流川に沿って歩いてく。
その道中、好奇心旺盛な露零による雑談から始まった話の振りによって二人は風月について楽し気に語り合うと「湿度」と『暗所』が作り出したとした空気を一瞬にして塗り替える。
「風月の人ってもしかしてみんなお面を付けてるの？ 仰さんは狐さんのお面をつけてたんだけど南風さんもお面付けたりするのかな～って」
「戦いの時しか付けないんでござるよ」
「それじゃあもしかしてさっき戦ってるときも付けてたの？」
「さっきは付けてないでござるよ。拙者が何かしたわけじゃないでござるから」
まだ浅い知識ではあるが露零はほとんど初対面の相手に対し、それなりに話を振ることができていた。
しかし風月の住民は「有事の際には面を装着する」という独自の國土風習が本人に自覚を与えず秘匿意識を育みその結果、國民たちがむやみにやたらに情報開示することは激減した。
それすなわちこの風月が隣國と比較して「時代の先を走っている」ことと『鎖國気質』を併せ持っていることの証明であり、それが前碧爛然、仰の強みとして國内のみと狭く、しかし気泡無く浸透することとなったのだ。
「それで城下町に着いてからなんでござるが――」
「………」
しかしそれも束の間に、一代で風月の在り方を一新し、新たな地盤を築いた前碧爛然が亡くなるや反動なのか秘匿意識は瞬く間に薄れていった。
そんな過去を経て迎えた現在、話題が風月のことに移ると露零は分かりやすく黙り込む。
唯一少女が知り得た憶測交じりの浅薄知識もこの國ではさも当たり前のことだと知り、好奇心を刺激された露零は落胆もそこそこに(もっといろんなことを知りたい)と考える。
「このまま向かいの山に出なければ城下町に出られるはずでござる。城下町に着いたら拙者の同僚にも貴女の探し人の捜索を掛け合ってみるでござる」
「ほんとに？！ やったぁ！」
先輩従者にして同伴者でもある心紬の捜索を前向きに検討してくれている。
その無条件の優しさに思わず舞い上がった露零は保護者のような心紬とは違い、友達のような対等な関係を構築していることに過去最高兆の喜びを感じていた。
殊音がいたことで多少不安は和らいではいたがそれでもやはり知った間柄で尚且つ心を許せる人物がいないと不安が募ってしまうものだろう。
まして心紬の安否確認もわからないこの状況は露零にとって不安以外の何物でもなかった。
そんな体内を巡る不純物を言霊に乗せて排出すると会話を重ねて全て吐き出し、歩いているうちにいつの間にか川がなくなっていることに二人は気付き、坂道もだんだん緩やかになっていくとやがて地上に出ることに成功する。
脱出したその拍子に露零はふと来た道を振り返ると向かい合わせの山と断崖絶壁が遠くに見え、その間にある谷のような場所の延長線上に出たことから通ってきた洞窟は二つを繋ぐ一種の地下通路のようなものだったのだろう。
向かいの山に攻め入ってきた野良が同じくこの通路を使っていたなら鉢合わせてもおかしくない場所だっただけに、彼らと鉢合わせなかったのはまさに不幸中の幸いだった。
ここに来るまでですでにパンク寸前のその足で風月の城近くまで戻ってきた二人だが、露零は城を訪ねる前に行わなければならないこの國特有のある習わしを殊音から聞くこととなる。
「風月には色々と決まり事が多いんでござるよ。風月の城、夜霧に入るには城下町で座禅を組む必要があるでござる」
