第二章2話『崖っぷち』
その女性は猿のような身のこなしで瞬く間に露零の元まで急接近すると近くの木に足を引っかけ、手を伸ばして宙を舞う少女の腕を掴むとそのまま易々と少女を木の上へと引っ張り上げる。
野生児のような重力を無視した軽やかな身のこなしの女性によって無事救出された露零は木の上で次第に落ち着き、平常心を取り戻すと見慣れないハイカラな格好をした女性に「た、助けてくれてありがとう」と感謝を伝える。
「拙者、壁伝いにしか移動できないでござる。風に流されて手が届かなくなる前でよかったでござるよ」
露零の努力は一体何だったのか。
少女からしてみれば頑張って考え抜き、いざ実行に移した努力を水の泡にされたようなものだが、あのタイミングで助けが来なければ少女は惨い死に様を晒していたこと間違いなしだっただろう。
露零を助け出した女性はそのまま少女を背負うと楽々と木々を飛び移ってあっという間にもと居た小屋地点まで登っていき、二人は再び絶壁の中間部にある小屋の前へと戻ってくる。
「ねぇ、私と一緒に誰かいなかった? 一緒にいたはずなのにどこにもいないの」
「もう一人、でござるか? 残念でござるが拙者が連れてきたのは傷だらけだった貴女一人だけでござるよ」
心紬はいなかった。
間接的にそう言われ、わかりやすく気落ちする露零だったが以前に比べて立ち直りの早くなった少女は早々に気持ちを切り替えると次に二つのことを尋ねる。
「ここはどこなの? あっ、それからお姉さんのことも教えて欲しいなーって」
「ここでござるか? ここは要人を匿うために建てられた知る人ぞ知る秘密の隠れ家でござるよ」
要人御用達の隠れ家がこんな辺鄙で利便性のかけらもない、ましてやここに来るまでに命を落としてしまいそうな物騒な場所あるのもおかしな話だが、露零が今この場にいることから恐らく少女は要人認定されているのだろう。
すると次は露零の質問二つ目に対する女性の返答。
命の恩人である彼女は救出直後だというのに一度も息を乱すことなく続けて自己紹介を始める。
「拙者は碧爛然殿の従者、南風殊音でござる」
「碧爛然? ってことはここって風月なんだ」
完全に敵地だと思い込んでいた露零は今いる場所が目的地、風月だと知り、ピンと張っていた緊張の糸が解けると安堵と同時にどっと疲労の波が押し寄せる。
気の休まらない極限の緊迫した状況の中、行動を共にした仲間ともはぐれてしまい、一人脱出を試みていた露零は一つの失敗も許されないという「失敗=死」に直結する完璧思想に無意識のうちに染まっていたが、そのことを客観視できるほど人間が出来上がっていなければ指摘してくれる保護者ポジションの先輩従者もこの場にはいない。
――――そんな少女に殊音はある物を手渡す。
「持ってるとそれだけでご利益があるでござる。これは風除けと言って風の影響を受けない優れものでござるよ」
「これって」
そう言って殊音が懐から取り出したのは露零がまだ水鏡にいた頃、心紬と共に訪れた雑貨屋で購入したそれだった。
購入の際にお守りを所持するメリットを聞いていたが、インチキ商法だと思っていた露零は自身の懐を弄った結果、紛失してしまったことに気付くとお礼を言って素直に受け取り、丁度いい機会だと考えると実際にその効果を確かめるため崖に足を出して座り、本当に風の影響を受けないかどうかをその目で確かめる。
するとなぜか殊音も露零の隣に座って足を出し、少女はまるで独り言のような導入から話を展開する。
「私ね、仰さんに言われたの。鳴揺さんを助けてほしいって。そのことを伝えるために風月に来たんだ。だからお城まで案内して欲しいなーって」
「…………」
事情を打ち明けた途端、彼女は口を閉ざし、しばらくの沈黙が流れる。
言葉が返ってこないことに少女が殊音を見ると、彼女はなぜか向かいにある山じっと見つめていた。
それが返答に困っていて考えをまとめているが故の沈黙ではないことに露零はうっすらと理解していた。
そして次の瞬間、ギラリと光を反射する飛来物に直感で反応した南風は「危ないでござる!!」と言い、露零を小屋のある方向に引き込む形で押し倒す。
あまりに唐突な出来事に露零は「えっ、なになに??」と状況が呑み込めておらず、事態を理解するまでに要した空白を驚きのリアクションで少女は埋めた。
しかし少女が驚いたのも束の間に、背後の木造建築の小屋が突如として全焼する。
殊音は攻撃の気配こそ察知していたようだがその手段、そして敵の居場所が分からないようで、「敵はどこでござる!」と向かいにある山全体を視界に入れると徐々に焦点を合わせていき、上下左右に視線を動かすことで敵影を捕捉しようと考える。
その一方で、露零は初撃こそ察知できなかったが遠視によって敵の位置、そしてその攻撃手段が自身と同じ弓矢であることに気付いていく。
「南風さん、矢だよ! 今すぐ逃げなくちゃ…」
必死に伝える露零だったが、(でも逃げるってどこに? どうやって行けばいいんだろう)と辺りを見渡し、退路がないことに内心嘆いていた。
完全孤立の恰好の場所、敵に攻め込んでくれと言わんばかりのこんな場所が本当に要人御用達の隠れ家なのだろうか?
思えば下に向かっていた露零を助け、わざわざ出発点である小屋まで連れ戻す理由も見当たらない。
そんなことを考えていると、殊音は「――何があってもここを動かないと約束できるでござるか?」と露零に尋ねる。
直前の猜疑心に塗れた自身の考えも相まって(突然そんなことを尋ねられても…)と露零は内心困惑していたが、彼女が次に取った行動は少女をさらに困惑させるものだった。
「それってどういう――」
南風の風貌は、外見的容姿にそれほど特別感はないが服装は露零が今まで見たことのないものだった。
くせ毛でくるんとはねた、淡い緑色の首元まである髪に同じく緑色の瞳。
顔立ちは無邪気そうな幼い感じだが、容姿は心紬と同い年くらい。
そして彼女が着用しているその服装は孔雀を彷彿とさせるハイカラな色合いで、機動力重視の軽装だ。
その驚きの光景を見た露零は「ちょっと待って!」と苦手な大声を力の限りに張り上げる。




