第一章30話『シャンテ・レーヴェ』
(まだ五分ほど時間を要する)
露零の体感ではすでに十分以上経過していたが、召喚する上で何より重要なのは正確さだ。
寸分の狂いもない体内時計のような存在である彼女曰く、まだ五分しか経っていないらしい。
露零の体感は現在目にしている戦いが少なからず影響しているのだろう。
つまり魔獣と御爛然、双方の攻防の速さが伺えるということだ。
並みの者ならいざ知らず、有為でも五本の指に入るほどの実力者たちが「深海」・『堕神』と力を引き出した際の速度はこれまでの比ではなく、強靭巨躯な魔獣を軽く翻弄するレベルにまで達していた。
(凄い、燦さんと闘っていた時よりもずっと速い。それなのに私、矢なんて当てられるのかな……)
他にできる者がいないとはいえ生まれて初めての大舞台。
視覚情報からくる漠然とした不安が露零を襲い、少女は不安を振り払うように弓を手に持つと召喚でき次第、いつでも矢を打ち放てるよう準備を始める。
「けほっ! ごほっ!! なんやこれ…酸欠状態が悪なる一方やし心臓に尋常じゃない圧がかかってる気ぃするわ。こんなん人間がしてええことちゃうで」
「はぁ…はぁ……。同感ね、これ以上続ければ大気圏に突入しそうなくらい心臓に熱が籠っているわ」
――――その時、露零は目前に魔獣を見る。
飛び回る羽虫を煩わしく思った魔獣は攪乱に徹する二人のさらに奥。
微動だにしない恰好の獲物を見つけると喜びの咆哮を上げるとともに、土を二度三度蹴り突進の予備動作を見せ始める。
「ここが分かれ目やな。出娜、深の力を出し切るで」
「――っ?! だめよ! 魔獣の動きを封じるための温存分を今使い切るなんて!!」
明らかな引き際で訪れた最大のピンチに二人の意見は真逆に割れた。
だがどちらの言い分も決して間違いとは言えない。
まずは突発性の窮地に陥ったことで急遽方針を変更した《《伽耶》》の意見から見ていこう。
彼女の判断についてだが、そこに私情がないかと言われればそれは嘘になる。
というのも魔獣に目を付けられた少女=庇護対象というのはこの場にいる味方の共通認識だ。
しかし伽耶にとっては血縁とまでは言い切れなくとも近親者であり、それだけで特別な思い入れを抱くには十分だ。
つまりその判断基準は極めて人間的であると言え、「合理性」より人としての『情』を優先したと捉えることができるだろう。
対する出娜の判断は御爛然が一致団結する理由となった《《魔獣討伐》》という大いなる目的のもと、如何なる情も押し殺して遂行するという目的最優先の考え方だ。
いや、押し殺すとは言ったが正確には少し異なっている。
まず最初に《《目的》》を設定し、そこから逆算して道筋を作るというのが彼女の手法であり、その道中に転がっている《《救いを求める石》》は迷わず拾い上げるだけの善性は持ち合わせている。
その最たる例として、出娜が発した制止の言葉には同僚の《《身を案じる》》意味合いも多分に含まれている。
常に最前線に立ち思考が洗練された二人は互いの言い分を瞬時に理解するも、情に突き動かされた伽耶は全てを理解した上で出娜の制止を振り切ると一人、魔獣を足止めするべく飛び出していた。
その姿はとても直前の会話で弱音を吐いていた乙女とは思えず、《《深海圧》》の激痛と引き換えに圧倒的な力を得た伽耶は魔獣の前に立ちはだかると空気中の水分を増幅させ、小さな水球を無数に発生させていく。
「なんぼあんたでもこうも小粒やと全部飲み込むんはできひんやろ。立て続けに《《圧力》》のかかる水球にぶつかったら流石に減速するはずや」
しかし彼女の思惑とは裏腹に、そう何でもかんでも予想通りに事が運ぶはずがなかった。
何かに気付いた露零が「お姉ちゃん危ない!!」と叫ぶも時すでに遅し。
無意識に働いた生存、防衛本能は本人も気付かない程度に力を思考もろともセーブをかけていたのだ。
おかげで魔獣とは相性最悪の迎撃手段を取ることとなり、気付けば魔獣は割って入った彼女の目前まで迫っていた。
(いくならんでも小さすぎるよお姉ちゃん。そんな飴玉みたいな水であんなにおっきい魔獣の動きを止められるわけないよ)
妹はこの土壇場で初めて姉のポンコツ天然ぶりを目の当たりにする。
しかし状況が状況なだけにそこに可愛さや愛着などは微塵も湧かず、むしろこのまま道連れにされるのではないかと恐怖さえ感じていた。
同時に過去一の危機感を覚えた少女は直前の死までの流れがフラッシュバックし、絶望顔で二度目の死期が《《今》》だと悟る。
――――露零と同じく焦る伽耶。
その時、魔獣の左右後方から意識を失い倒れていた識爛然と出娜が同時に現われ、出娜は鎌で魔獣の四肢を狙い、識爛然は魔獣に直接触れると精神干渉を試みる。
この時、作戦の全てが瓦解しかねない最大のピンチへの対応に全員の意識は向いていた。
今の彼ら彼女らに希望に縋ろうなどという思考は微塵もなく、例え目を逸らしたくなるような絶望であろうと考え、足掻き、立ち向かうその姿は紛れもなく本物だ。
図らずも人知を尽くして天命を待つを正しく体現した人類。
その勇姿は神の御心をも揺さぶり、運命を刻む秒針は長短刹那で入れ替わるとまるで救いの手が差し伸べられるように、誰もが待ちわびた《《その時》》は何の前触れもなく訪れる。
(完了した)
脳内に響くレーヴェの声と共に突如、露零の手中に現れたどこまでも純白で清らかな一本の矢。
まるで鳥羽のように重量感を感じない、しかし「重量」とは異なる底知れない人々の『思い』が受け皿となった小さな手の上に重くのしかかる。
神々しさすら感じさせる破魔矢は魔獣の靄にも瘴気にも当てられない、いや、魔獣の靄を相殺して尚余りあるほどの神々しい光を放っていた。
植えた《《逆転の一手》》という名の種は人の思いが養分となり、まるで竹のような急成長をして見せた。
その結果、推定所要時間である十分を待たずして《《逆転の種》》は実を結び、条件が整ったことで少女は次の行動に出る。
「準備できたよ! みんな避けて!!」
総がかりで魔獣の動きを封じる御爛然三名。
この時の彼らはまだ誰も第一関門を突破したことに気付いておらず、少女は目一杯声を張り上げる。
すると合図を聞いた御爛然はすぐさま三方向に散開する。
「?!!」
皮肉にも生命を枯れさせる魔獣の咆哮と踏み鳴らしによって作られた開けたフィールド。
しかしそれだけではまだ十分とは言えず、射程圏外へと瞬時に飛び出た味方によって一切の不純物が取り除かれた露零の視界。
だが取り除かれた不純物は視覚のみに留まらず、ついに訪れた一世一代の大舞台に「プレッシャー」と尋常ではない『むき出しの緊張感』が合図を出した際の言霊には宿っていた。
その後、全員矢の軌道上から逸れたことを遠視にて確認した少女は弓を構えて矢をつがえる。
しかし矢を構える少女の手はほんの僅かに震えていて、このままだと一撃必勝の《《破魔矢》》を外してしまうと直感したレーヴェは平常心を取り戻すよう少女の脳内に語りかける。
(何も気負わなくていい。一度魔獣から目をそらすべきだ)
しかし極限の状況下では彼女の行動は却って逆効果でしかなく、どれほど理に適った助言であろうと聞き手にとってはノイズでしかないのが事実だ。
よってレーヴェの言葉は全くと言っていいほど少女に届いていなかった。
だがそんな少女一人の不安など幾千もの人の思いによって作られた一本の矢の前には何の意味を成さず、伝播し流れ込んできた希望が帯びた《《熱》》がやがて全身を巡ると魔獣を滅するべく、少女の小さな手からついに破魔矢が放たれる。
「お願い、当たって――――!」
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
この時、レーヴェはある日のことを思い返していた。
(私がいた世界には御創様と呼ばれる三神が存在する。そして御創様にまつわる言い伝えもまた、古くから世界に記されていた)
かつての世界はモノクロだった。
粉塵舞う灰色の空。
どこまでも広がり続いている白い大地。
半透明の身体からドス黒く染まった闘争心の臓が透けて見える動植物。
色の抜け落ちた世界を「画用紙」で例えるのなら、黒い『心臓』を持って生まれた生命は「画用紙」に垂らし落とされた『インク』のようなものだ。
そんな「世界」と『生命』とでは、決して人知が及ぶことはない隔絶された《《不変の理》》が存在する。
(――――チタニウムホワイト。そう、私たちが生きる世界は常に生命に牙を剥く。まるであるべき白紙に戻ろうとするように)
色の無い世界は徐々に生物たちの精神を蝕み始め、言葉を持ち合わせていない生物は日々争いに明け暮れていたという。
引き際を知らない動物は無力な同胞を容赦なく喰らい、文字通り共食い上等の《《弱肉強食》》がものをいう世界となっていたそうだ。
ある時、そんな世界の有様を哀れんだ御創様は地上に降り立つと世界に「三原色」を、動物達に『意思疎通』の術を与えたと言われている。
御創様はその後、世界の発展を外界から干渉、静観していると、徐々に世界に変化が現れ始めたという。
「色」を与えられたその世界は三原色から多くの色を派生させ、『言葉』という意思疎通の術を与えられた動物たちには次第に《《知識》》が身に付いていったそうだ。
「世界の地盤を築いた者たちに敬意を払い、人間達は彼らをこう称している」
・世界に彩りを与えた神
・生物に声を与えた神
・彼らに次ぐ後発の神
「傭兵の私を雇ったのはうち二人の御創様だ。二人の目的を知った以上、キメラを滅することは単なる道半ばでしかなくなった」




