第六章7話『他人型』
人間、誰しも一度懐に入られてしまえば弱いものだ。
体質変化によって遠視を獲得した露零にしてもその理論は例外ではなく、それにかまけて視覚に頼り切っていては遅かれ早かれ死角に直面、突き当たることになるだろう。
強引に輸血チューブを引き抜いて自室を飛び出し、逃亡を図る少女の行動は言わば直面した袋小路を引き返すUターン行為。
自身を袋のネズミ状態へと追い込んだ者の正体もその目的も不明だが、外見での判断が困難な扮装する新手の出現に、特にこれといって行く当てもない少女は共に部屋を飛び出した愛猫ましろんを先頭に城内を駆け回る。
「ねぇましろん。なんで私、藍凪に戻ってきてたの? あの後のこと、何か知ってたりする?」
「にゃーお」
「付いてこいって言ってるの?」
ほんの僅かな不在期間で脅かされた安住の地。
住居侵入者と鉢合わせという最悪なシチュエーションな上、どこの誰のものとも、安全かどうかすらも不明な得体の知れない血液を輸血されたのだ。
それは口伝えで第三者が見聞きする以上に大きく、当事者恐怖は計り知れない。
先頭を走って少女を誘導する愛猫ましろんは追手との距離を見る見るうちに開いていくと、そのままの勢いである部屋まで駆け抜け目前で立ち止まると続く露零、そして少し離れた後方から追い迫る心紬に扮した敵も続々とその場に集結する。
「にゃおにゃーがお!」
「はぁ…はぁ……やっと追いつきまし――」
「――――伏せてください!」
障子越しに飛んできたのはどこか懐かしくもある鋭利な言の刃だった。
その特徴的な口調は紛れもなくシエナだと断言でき、愛猫が頼った者であり従者として、自身の先輩にあたる彼女にいつになく多大な信頼を寄せるとその言葉に従いこの場に伏せる。
すると障子が勢いよく開き、黒い人影が目にも止まらぬ速さで飛び出てくる。
その人影は追い迫る心紬に扮した新手を地面と仮定し、回転反射で掴みかかるとそのまま襟元を掴んでさらに半回転し、盛大に地面にたたきつける。
――――ベチャ。
「なんやアンタ? ウチの心紬は今、髪切り鎌鼬と一緒に中継役を買って出てくれてるんや」
「……この手口はメコのやり口ですよ。この状況は私の不在が招いたものです」
「あれは前任者が不徳の致したことの結果や、あんたが責任感じる必要は何もないで。にしても後ろ足で砂をかけられるとはよう言うたもんや。動き出した思たら真っ先にここを狙うてきおった」
城内への侵入を許したということはそれすなわち、敵の本格始動と同時に國防の脆弱性も浮彫になったということだ。
國防の目的で伽耶の生み出した國全域を覆う水球はアワーズ・ロック、通称『あわわ』と呼ばれている。
そして一時期ではあるが國を空け、不在となっていた真の意味で砦という唯一無二の肩書持つシエナは人知れず水鏡に身を寄せる多種多様な猫を統括する者として、主に國内の警護を担っていた。
他の者には決して務まらない唯一無二の中外二枚看板、故に國を守るという一点において、二個一な関係性の二人のうち、どちらか一人でも欠けてしまえば一枚岩へと成り下がり、今回のように外敵全てに手が回らないという事態に陥ってしまう。
伽耶本人にその気は全く無いが、手元を離れて初めて気付いた個人の価値に彼女の人生観は大きく揺らぎ、これまで何の疑問も抱かなかった代々続く「契約」と『呪縛』を自身の代で、それもこの瞬間を以て廃止する決断を下す。
「理由はともあれ、ウチの民らが契約を反故にした事実は変わらへん。せやからウチの言葉で改めて言わせてもらうで、これからはあんたの意思でウチを…この水鏡を守って欲しいと思うとる」
「…………」
一國のトップに立つ者として、平身低頭、最大限の敬意を払った対応をして見せた伽耶。
この時ばかりは主君としての側面は一切見せず感じさせず、あくまで対等な相手として、また、これまでの関係性に思うことがあったのか、初対面と見なして一から再度関係構築を試みる。
そんな二人の間に流れる沈黙、その狭間で固唾を飲んで見守る露零。
だが少女とは正反対にマイペースさを崩さないお気楽な愛猫は少女の足元にすり寄るとそのまま足の上で眠ってしまう。
「はぁ、その子を見ていたら馬鹿馬鹿しくなってきました。わかりました。私に任された責務、次こそ果たさせて頂きます」
「まだ堅さは抜けてないけどまぁええわ。これまでが根詰めすぎやったしむしろそれぐらい気ままな方がウチとしてもありがたいで。これからはお互い自由に好きにしたらええ」
「やったぁ! よかったね、ましろん♪」
「むにゃぁ~」
猫という種族の特徴をこれでもかと体現する自由奔放な愛猫ましろん。
その一切着飾る事のない、ありのままの姿は知らず知らずのうちに人間世界に溶け込みつつあったシエナの半身を取り戻すきっかけとなり、半端に人間要素があることで深く考え込む自身の悩みなど、大自然の中を打算抜きにその日暮らしで生きる彼ら彼女らにとってはちっぽけなものだとかつての自身もそうであったように、人間世界の価値観に染まっていたシエナは環境によって傾いた天秤を正常に戻すかのように今の考えを改める。
「ねぇ、そう言えば私さっきね。偽心紬に血を入れられちゃったんだけど大丈夫かな? 変なものだったりしない?」




