第36話 黒壁の先と影の人
少しばかりの抵抗.……水に入っていくような感触と共に俺達は『反転迷宮』へと踏み込んでいく。
視界の先は例の透き通った闇の世界かと思ったが、意外なことにそこに広がっていたのは緑豊かな景色だった。
「……さて、どう見る?」
独り言のように呟いて、周辺をつぶさに観察する。
「地形的には、飲み込まれた『死の谷』に似てるっす。ただ──」
「豊かすぎるな。過去の景色か? それとも未来の景色か? あるいは、こうであった可能性の景色なのかが問題だ」
人はあらゆる事象を見たいように見るものだ。
『透明の闇』が形成する迷宮、『無色の闇』ではそれが顕著な現象として現れることを俺達は実体験として知っている。
つまりこの景色は、俺達か……あるいは、何者かの願いや想いによって呼び寄せられた迷宮である可能性が高い。
「手、離すっすね。先行警戒、どうかけるっすか?」
「まずは〈望遠の瞳〉で周辺をチェックしよう。レイン、ジェミー、頼む」
「了解」
「ん」
頷いたレインが両手を差し出すので、抱え上げて肩車する。
それを見たジェミーが小さく口元をヒクつかせた。
「災厄級迷宮でいちゃつくのってアリなワケ?」
「ジェミーさん。レインとユークさんはいつもあんなですよ」
「い、いちゃついてる訳じゃないぞ! 高度の問題だ!」
ややしどろもどろになりながら答える俺に、仲間たちが吹き出す。
張り詰めていた怯えに似た緊張感が少し緩和され、俺も固くなった体から力が抜けるのを感じた。
「敵影、なし」
「こっちも見あたらないわ」
「──ユークさん、悪い報せっす」
ただ一人、崖によじ登って【望遠鏡】を覗き込んでいたネネが、不穏な言葉を発する。
「どうした、ネネ」
「『王廟』らしき建物が露出してるっす。んで、周りに影の人らしいのがうじゃうじゃいるっす」
レインを地面におろしてから、俺も崖を上る。
【望遠鏡】をネネから受け取り、示された方向を覗き込むと、ネネの報告通りのものが映った。
崖の上からでなければ谷の影になって見えないが、独特の雰囲気な台形の巨大な建造物が出現しており、その周辺を影の人が行きかっていた。
「何か作業をしているようにも見えるな」
「はいっす。役割分担もあるように見えないっすか?」
言われてみれば。
影の人についてわかっていることは少ない。
冒険者ギルドでは『迷宮のみで見られる高位アンデッドモンスター』とカテゴライズしているようだが、遭遇数が極端に少ないので特性や性質、生態について把握はされていない。
ただ、アレが手強いということだけは、よく知っている。
『アイオーン遺跡迷宮』の探索で、俺達『クローバー』はあれと戦闘になったことがあるからだ。
「とりあえず、近づくとしよう。何をしているのかも気になるが、この空間が下位迷宮と仮定すれば、本丸は『王廟』だ。あそこから『無色の闇』へ入る必要がある」
「っすね。私はこのまま高台を移動して先行警戒をかけるっす」
「頼んだ」
ネネとコツンと拳を触れさせて、俺は崖を駆け降りる。
「どうでしたか、ユークさん」
「ここが『死の谷』なのは間違いなさそうだ。以前、『王廟』があると予測していた地点に大きな建造物があった」
「影の人は?」
「ネネの報告通りかなりいる。どうも組織的な動きをしてるみたいなんだ。なので、まずは近づいて様子を確認しよう」
仲間たちが頷く。
その中で、マリナの様子が少しばかりおかしいように感じた。
「マリナ、大丈夫か?」
「うん。大丈夫……と思う。ごめんね!」
「何かあるなら言ってくれよ?」
小さくうなずくマリナは、少し震えている。
どこにいても元気いっぱいのマリナにしては珍しいことだ。
「ほら、どうした」
「ひゃうッ!?」
軽く抱擁してから背中をあやすように叩き、目線を合せる。
俺は顔に出やすいとよくシルクに言われるが、マリナの場合は雰囲気ですぐわかってしまう。
「えっと、ね。ちょっと怖いっていうか落ち着かないっていうか……」
「そりゃ、怖いだろうな。俺も怖い」
「影の人……知ってる人だったらどうしようとか、失敗して世界が滅んじゃったらどうしようとか。あたしったらバカで難しいこと考えられないのに、どうしても気になっちゃって」
「そうか。マリナは優しいな」
目を伏せるマリナの頭を軽く撫でる。
マリナは『クローバー』の中で、最も『ラ=ジョ』に馴染んでいたと思う。
快活で開放的で太陽のように明るく、自らの意志で太刀を揮って最前線で戦う彼女は、新たなサルムタリアを夢見た『ラ=ジョ』の住民が求める女性像にピッタリだったのだろう。
冒険者志望の住民に稽古を一番つけていたのもマリナだ。
だからこそ、マリナの『ラ=ジョ』の人々への思い入れも深い。
人を斬るのにはもう慣れたかもしれない。ここに至っては、覚悟もあるだろう。
しかし、それが数日前まで笑顔で話していた相手だと思えば葛藤も強い。
割り切れない思いは決心と思い切りの鈍りを呼び、失敗の恐怖にすり替わる。
マリナの抱えるストレスは、半端なものではないだろう。
「なあ、マリナ。自分が影の人になったとして、無差別に俺達を襲う自分をどう思う?」
「そんなの嫌だよ! その時はみんなであたしを流れに還して欲しい」
「なら、『ラ=ジョ』のみんなも、そう思ってるんじゃないか?」
これがエゴの深い誘導尋問だとはわかっている。
彼らの望みがそうであるかなんて、もはやわかりはしない。
だが、マリナの葛藤を軽くするための救いにはなるはずだ。
「──うん。そうかも……! ごめん、ユーク。もう、大丈夫」
「ユークお兄ちゃんの言う事は、正しいと思う」
しばし黙ったままだったニーベルンが、何か考える風に呟く。
「『グラッド=シィ・イム』の〝黄金〟の指輪は、きっと〝存在証痕〟を持たない人間を影の人にしないために用意された。でも、やっぱりうまくいかなかったんだ……」
少し考えた後、ルンが頷く。
そして顔を上げて、口を開いた。
「お兄ちゃん、この世界を構成してるのって……影の人じゃないかな?」
その目にはどこか確信めいた光がともっていた。
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