第十六章 -Part of your world- 『レムースラシアス』
それ程複雑な譜面じゃない。
ピアノで言えばせいぜい初級から中級レベルのシンプルな曲。
緩やかな曲調とメロディーに、どこか童謡か子守唄の様な印象を受ける。
曲がループして戻って来た所で、ただの確信が明確な信念へと形を変えていく。
さっきまでデタラメに思えていた歌声は、僕が描いた楽譜と寸分違わず一致していた。
すぐに真新しい楽譜をイメージして、今度は一音一音ズレを修正しながら新たな譜面を描いていく。
一つ一つ確認しながら、正しい楽譜へと音符を刻んでいく地道な作業。
1小節、2小節……、嫌な汗が頬を伝う。
今にも飛びそうな意識を必死に繋ぎ止めながら、焦る気持ちをかろうじて抑えながら、まっさらな楽譜に丁寧に音符を乗せていく。
8小節が過ぎ……、10小節が過ぎ……、
最後の音を刻んだ瞬間、自分の中で何かがカチリと音を立てて嵌ったのを感じた。
もう一度曲がループするより先に、新たに描いた楽譜のコードをそっと鳴らす。
正確なメロディーをハミングにして緩やかにコードに被せていく。
赤ん坊を寝かしつける様に、子供をあやす様に、宥める様に。
いつの間にかセイレーンの歌声が止んでいた。
「……これは……」
立ち上がったティアレが、僕のすぐ傍でそう呟くのが聞こえた。
「……『つないだ手』でござるな……」
「小さい頃、母様がよく唄ってくれたのニャ……」
意識を取り戻したのか、スズとセツカの2人も軽く頭を振りながら立ち上がるのが見えた。
メロディーだけで歌詞が分からない僕を支える為なのか、3人が僕に合わせて優しく唄い始める。
その歌声に誘われる様にして、床に倒れ伏せていた船員達も一人、また一人と頭を押さえながら立ち上がり始めた。
きっかけはほんの些細なものだった。その船員自身にも深い意図があった訳じゃないと思う。
子供の頃に誰もが耳にする曲なのかもしれない。
ある一人の船員が僕らに合わせて唄い始めたのを呼び水にして、その歌声は次々と伝播していく。
その時――
水平線の遥か向こうから、一筋の光が真っ直ぐに船に向かって差し込んだ。
まるでその光が闇を払うかの様にして、重く垂れ込めていた暗雲が急激に遠ざかって行く。
優しい歌声に包まれながら、背中から朝日を一身に浴びるセイレーンの子供は、気が付けばボロボロと大粒の涙を零して泣いていた。
周りの目も憚らず、顔をクシャクシャにしてわんわんと泣きじゃくるその姿は、間違い無く幼子のそれだった。
曲が終わると同時に、その子が僕の方へと駆け出してくる。
ギターを背中に回してしゃがみ込むと、小さな体が胸の中に飛び込んできた。
真っ赤に泣き腫らした両目が痛々しい。
「イッチーさん、持ちますよ」
「ありがとう」
ギターをティアレに任せてからゆっくりと抱き上げると、驚く程小さく軽い体だった。
ようやく涙の止まった目はまだ赤いままだったが、小さく笑ったその顔はとても柔らかく落ち着いて見えた。
タイミングを見計らっていたかの様に、船長らしき狼の姿をした獣人が声を張り上げる。
「とにかく一度モルド島に寄港するぞ! すぐに乗客と船の確認だ!」
『へい!!!』
号令を合図にして、船員達が機敏な動きで散り散りに走り去って行く。
船長はそのまま僕のすぐ傍まで歩いて来ると
「今は一旦船室の方に……。あっしも後で向かいます」
「……はい、分かりました」
それだけを言い残すと、自身も操舵室がある上階へと足早に姿を消した。
「あれ……? 特に何も聞かれなかったけど、部屋とか分かるのかな?」
「……そう言えばそうですね」
「まぁともかく、今は船長の言う通り一度部屋に戻った方が良いでござろう」
「アタシはお腹空いたのニャ~。朝ごはんは何かニャ~?」
さっきまではあれだけ切迫した事態だったというのに、意外とあっさりとした対応に拍子抜けしてしまった感もある。
スズのマイペースはいつもの事なので今更だし、その天真爛漫な無邪気さに救われている面が多いのも確かだ。
「そうだね、戻ろうか」
腕の中に収まるセイレーンの子供は、不思議そうな様子でキョトンと僕を見つめていた。
つぶらで大きな瞳が朝日を受けてキラキラと輝く。
それはまるで、透き通る南国の海の色だった。
振り返ると空を覆っていた暗雲は消え失せ、海と空との境界すらあやふやな程の鮮やかな蒼が、遥か向こうまで見渡す限りに拡がっていた。
(今日は暑くなりそうだな)
そんな空模様のお陰なのか、出港前からずっと胸の内にわだかまっていた不安や胸騒ぎも、気が付けば雨と共に綺麗に洗い流されていた。
船室へと戻り揃ってテーブルに着くと、ティアレが全員分の飲み物を淹れ直してくれた。
セイレーンの子供は僕の膝の上で、まさしく借りてきた猫といった様子で大人しく座っている。
子供に熱い物はどうかと思い、すっかり冷めてしまった手付かずのコーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと入れてあげる。
心配そうに僕の顔を覗き込むのがおかしくて、ついつい頬が緩んでしまう。
「飲んでいいんだよ」
恐る恐るといった感じで手を伸ばすと、小さな両手で包み込む様にしてカップを傾ける。
最初の一口目だけは驚いた表情をしていたが、お気に召してもらえたのか随分と嬉しそうに飲み始めた。
揃って微笑ましくそんな様子を眺めていた皆も、ようやく安心して自分の飲み物に手を付けるのだった。
「え~っと……、それじゃあ、まずはお名前から聞いてもいいかな?」
やっぱりという言い方も変だけど、柔らかい笑みで話を切り出してくれたのはティアレだった。
「……ース、……シアス……」
「ん? ごめんね……、もう一回教えてもらえる?」
「……レムースラシアス……なの」
か細い声でそう名乗ったセイレーンの子供は、声の感じからしてどうやら女の子みたいだ。
この年頃の子供は声でも見た目でも判断し難いとは言え、散々姪っ子ちゃん達の遊び相手をしてきた身としては、多分間違ってないと思う。
「レムースラシアス……、あまり聞き慣れない名前でござるな……」
「そうですね……、貴族か王族にいてもおかしくなさそうな名前ですけど」
「それにしてもちょっと長いのニャ~」
この世界の知識に乏しい僕は何とも言えないが、最後のスズの意見にだけは同意である。
「レムースラシアスなの……」
「そうなんだ。ありがとう、レムースラシアス」
急に不安そうに覗き込んできたレムースラシアスにお礼を伝えて、そっと頭を撫でてあげると、くすぐったそうに目を細めていた。
「もういっその事、イッチーが付けてあげたらいいのニャ」
「え゛っ!?」
(この流れには覚えがあるぞ……。これ絶対に乗っちゃ駄目なやつだ)
「はははっ、そんなに警戒せずとも、あれはバルハイドだけに残る古い風習でござるよ」
「私もスズさんに会うまでは、一度も聞いた事なかったです」
「あ、そうなの? とは言ってもなぁ……」
ただのあだ名とは言え、さすがに本人の同意も無しに勝手に付けていいものじゃないだろう。
気に入らないあだ名で呼ばれ続けるなんて目も当てられない。
「え~と……、レムースラシアス、レムースラシアス……。レムース……ラシアス。……レムース……。……ムース……。……『ムース』、なんてどうかな?」
他の皆ではなく、海色の目を見てそう尋ねてみた。
するとレムースラシアスは突然パァっと顔を輝かせて
「ムース! ムースなのっ!」
と足をバタつかせて喜んでいた。
何がそんなに嬉しいのかは分からないが、本人が気に入ってくれたのなら何よりだ。
「それじゃあムース、ムースちゃんって呼ぶね? 私はティアレ」
「ムース殿でござるか。可愛らしくてイッチー殿らしいでござるな。手前はセツカでござるよ」
「アタシはスズ。アタシもイッチーに名前を貰ったのニャ、ムース」
「僕はイッチー。よろしくね」
ムースと呼ばれたその子は、ただ嬉しそうに何度も「イッチー、ティアレ、セツカ、スズ」と繰り返し繰り返し皆の名前を呼んでいた。
一度聞いただけで皆の名前を覚えているところを見ると、とても頭の良い子なんだろう。
ただボサボサに伸び放題の髪と、所々の穴の空いたボロボロのワンピースが、少しだけ僕をいたたまれない気持ちにさせる。
「ねぇ、ムースちゃん。お姉ちゃんと一緒にお風呂に入ろっか?」
そんな僕の気持ちを察してくれたのか、ティアレがそう提案してくれた。
「そうでござるな。拙者こう見えて散髪も得意なのでござるよ?」
「ニャハハ、そうなのニャ。アタシもいつもセツカに切ってもらってるニャ。ちょっと大きいけど、服はアタシのを使うといいのニャ~」
女三人寄れば何とやらで、さっそく3人は姦しくお風呂に入る準備を始めるのだった。
「……お兄ちゃんは一緒に入らないの……?」
膝に乗ったままのムースの心配そうな呟きに、一同が硬直する。
「……はい?」
「イッチーは一緒に入らないの?」
(いや、別に僕の事だと分からなかった訳じゃないんだけど……)
「え?」
「なっ……」
「ナイスアイデアなのニャ、ムース!」
グッと親指を立てた最後のスズは別として、ティアレとセツカが絶句したのも無理はない。
「えっとムース、あのね……、一応そういうのは色々とマズイと言うか……、倫理的に問題があると言うか……」
「ハァ……、何を言ってるんですかイッチーさんは……。ムースちゃん、イッチーさんとはまた今度一緒に入ればいいから、今はお姉ちゃん達と一緒に入りましょう」
呆れた顔で溜息をつくと、僕の膝からムースを抱き上げてそのままお風呂場の方へと向かった。
「はーいなの!」
素直な返事のムースとは対照的に、スズ1人だけがやや不満そうな顔を浮かべていたが、そこは完璧にスルーしておく。
そうしてお風呂場からは、すぐに女の子達4人のキャッキャウフフという楽し気な笑い声が聞こえてくるのだった。
このお話も筆を取る前からずっと温めていたネタでした。
楽しんでもらえたら嬉しいです。





