Interlude -Unchained melody-
――中央大陸南西海岸部
険しい断崖に囲まれた海岸線に加え、刻一刻と潮流を変化させる危険な海域。
西の大陸北部と中央大陸とを直接繋ぐ海路が拓かれていないのも、いつ発生するかも分からないこの海域特有の渦潮が主な原因である。
ならば陸路はどうだと考えるのが自然だが、波に叩かれる絶壁と吹き荒ぶ潮風以外、村や街どころか草木もろくに生えないこんな荒野を、わざわざ訪れるもの好きなどいるはずもない。
元々非常に豊かな潮境であったこの一帯は、人の手が入らない事で魚達にとってはまさに楽園とも呼べる場所ではあるが、それを狙って漁に向かう命知らずも今ではもう一人もいない。
そうまでして漁場を争う程この世界の海産資源が枯渇している訳ではなかったし、第一それが命を掛けるに値するかどうかは考えるまでもなかった。
そんな海岸線の入り組んだ入江の奥に、ひっそりと隠れる様に開いた小さな海岸窟があった。
隠れる様にと言うのは決して比喩などではない。
通りかかる船一つある訳でもなく、もし仮にあったとしても船からこの岩場に囲まれた洞窟を見つけるのは不可能だろう。
かと言って、地上側から繋がっている小さな洞穴を偶然発見する確率は、確実にそれ以上に不可能と言っていい。
本当の意味でうらびれた、誰からも忘れ去られた海岸窟。
その海岸窟の最奥部はそんな無理難題な立地条件からは想像もつかない程、
いや、おおよそ似つかわしくないと言っていい程、不思議な生活臭に満ちていた。
痕跡と言ってもいいかもしれない。
確かにかつてここで人が暮らしていたという、独特の空気感を伴った生活の残滓。
事実洞窟の最奥には非常に簡素ながらも、最低限衣食住を賄うには事足りるであろう調度品のいくつかが見受けられた。
もちろんそれらはあくまで『生きていく』には事足りるという程度の物であって、人間的に豊かな生活を営むには程遠いであろうささやかな物でしかなかった。
そんな家とも部屋とも呼べない、術炉が灯す弱々しい光が揺れるだけの薄暗い空間で、少女は今日も一人、両親の帰りを待ち侘びながらひとり遊びに興じる。
「外は危険だから決して出てはいけないよ」、「すぐに戻るから良い子にして待っていてね」、そう言い残して両親がここを出て行ってから、果たしてどれ程の月日が流れたのかも分からない。
この空間に暦と呼べる物は無かったし、もし仮にあったとしても、少女はそもそも暦の読み方すらも知らなかった。
不幸中の幸いではあったが、海に潜れば食べる物には事欠かなかったし、少女には自由に海を泳ぎ回る事が可能な力も備わっていた。
食べて、寝て、両親の帰りを待ち、そしてひとり遊びに興じる。
たったこれだけの暮らしを、果たして本当に『幸い』と言っていいのか甚だ疑問ではある。
それでも本当の意味で『幸い』だったのは、そんな境遇の中にある少女自身が、それを不幸な事だと自覚出来ていない事かもしれなかった。
一体なぜこんな物がこんな場所に、と誰もが目を疑うであろう美麗な細工が施された、美術品と見間違う程に風光明媚な箱を前に、少女は今日も一人無邪気に笑う。
今となっては、唯一両親が少女の為に遺していってくれた大切な大切な品。
これまで少女がたった一人で両親の帰りを信じて待ち続けてこられたのは、この箱の存在が大きな心の支えになってくれていたからなのは間違いないだろう。
しかし最近、外の時間で計算すれば数ヶ月前からだろうか。
少女の心の内には、ほんの小さな、けれど両親と離れて以来初めての変化が現れ始めていた。
時折遠い遠い空の向こうから、とても楽しげな、とても嬉しげな、
そして凍りかけていた少女の心を溶かすには十分な、暖かくて優しい音色が響いてくるのだ。
決してその音が直接少女の耳に届いている訳ではない。
ただ少女にはそれを感じ取る事が出来た。
それは時には胸が締め付けられる様な哀憐を誘う音色であり。
それは時には陽の光に包まれる様な慈愛に満ちた音色であり。
それは時には鼓動が高鳴る様な心躍る音色であり。
それは時には魂が揺さぶられる様な激情に溢れた音色であった。
どれ一つを取ってみても、少女のこの閉ざされた生活の中では知る由もなかった音色であり、経験する機会すら与えられてこなかった感情だった。
自分自身でも知らなかった感情の波に揉まれ、
生まれて初めて考えてしまった、まだ見ぬ外の世界への期待に胸を脹らませ、
未知への恐怖と、無知故の希望との間で揺り動かされる。
そんな感情に蓋をする為に、そんな自分自身から目を逸らす為に、いつも通り一人箱に向き合う少女。
けれど少女自身、そういった意識を持ってしまっている事自体が、既にいつも通りの自分ではないという事には気付けない。
少女の中にあったのは『違う』という確信と、『これじゃない』という不満。
今までそんな事は一度も無かったのに、あの音が聴こえてくる様になってからは、唯一の楽しみであったはずのひとり遊びですら、少女の乾いた心を潤してくれる事はなくなってしまった。
初めは西の方から、そして今日は南の方から、例の音色が潮風に乗って響いてくる。
とても荒々しくて、それなのにどこまでもひたむきな、愚直で飾らない、未来へと一筋の光を指し示す導。
その感情が一体何なのか、この激情が一体何を意味するのか。
それを理解出来る程の経験も、それを分析し得る程の心の成熟も、少女にとってはそのどちらも絶望的に足りていなかった。
ただ少女の胸に飛来したのは、『行かなければ』という理解不能な焦燥。
そして『何かを変えられるかもしれない』、という縋る様な願いだった。
もうこれ以上、自身を誤魔化し続ける事は出来そうになかった。
前に進みたいと思ってしまった。
一つだけ心に刺さる小さな棘は、ここで待つという約束を守れない事への自責。
生まれて初めて破る両親との約束。
それは二人が最後に遺していった約束でもあった。
それでもそんな自戒の足枷すらも、少女をここに繋ぎ止めておく為には、少女自身が大きくなりすぎていたのかもしれない。
最後にもう一度だけ、今日まで支えてくれた大切な大切な宝物を、
静かに、優しく、慈しむ様にしてそっと撫でる。
またいつでも戻って来られるという常識的な感覚は、少女の中には存在していない。
少女にとっての世界とは、ここと、ここを中心としたほんの僅かな海の中だけ。
ここから出て行くという事は、即ち別の世界に飛び出して行く事と同義だ。
少女は決意を込めて立ち上がった。
明確な意思を持って立ち上がってしまった。
もう戻れないと自覚していながら。
ゆっくりと洞窟の先から繋がる、そして見果てぬ世界へと繋がる水面へと足を進めて行く。
一度だけ振り返り、視界にその全てを収めてしまえる程に小さな、これまでの思い出の全てが詰まった、唯一の自分の世界を見つめる。
最後に自然と口から零れたのは、感謝の言葉だった。
自分を育んでくれたこの場所に対する物だったのか。
大好きな両親に対する物だったのか。
あるいはこの世界から飛び出す勇気をくれた贈り主に対する物だったのか。
それは少女自身にも分からない。
戻した視界に映る水面の先に待つのは、果たして希望か絶望か。
しかし少女を突き動かした衝動は、そのいずれかを求めて手を伸ばした結果ではない。
では一体何が?
ただ一つだけ確かなのは、
少女をこの水面へと、
水面の先に広がる世界へと誘ったのは、
『音楽』だったという事。
ただそれだけだった。
僕には珍しい三人称の物語ですが、実はかなり前から少しずつ大切に書き進めていました。
暗めの展開ではあるんですけど、自分ではとても大好きなお話だったりします。
普段なるべくクレクレはしない様に心掛けていますが、ここまでこの長い物語にお付き合いいただいている読者の方々に、まずは深い感謝を。
そしてもし良ければ気が向いた時にでも、感想や応援、評価等いただければ嬉しく思います。
暫く体調を崩していたのもありますが、モチベという名の燃料補給になります。
海凪美波流





