夜の癒やし
ラティアはヴァルドール家について書かれているページを、本をぱらぱらとめくって見つけた。
ヴァルドール家とは、女神の騎士である。
冷静にして冷酷。その血にて魔竜を屠った。リーニエを守り、彼女を慕った。
その忠誠は、女神に祝福されし初代ルミナール王へと捧げられた。
それ以来ヴァルドール家は忠義の臣下として、王のためによく働き、国の安寧を守っている。
そのようなことが書かれており、ラティアは文字を指で辿りながら微笑んだ。
「これは、旦那様のこと。旦那様は、国に尽くしていらっしゃる」
古の時代──今からおおよそ千年ほど前に存在していた初代ヴァルドール公の姿は、きっとアレクシスに似ていたのだろう。
フィオーレ伯爵家の名は、聖典には出てこない。
セシリオ神官家については、多くのページが割かれている。
彼は女神の最愛である。女神を庇護し、女神と結ばれた。献身的にリーニエを支え、彼女を魔竜の襲来から守った。魔竜はたびたび人に与するリーニエを害しようとやってきたが、全てを打ち払った。
セシリオ神官家があるからこそ、リーニエは人々に力を貸し続けたのである。
長々と書かれている文章だが、要約するとそのような意味だ。
ラティアは小さく息を吐いた。文字の渦が頭をぐるぐるとまわるようだ。
セシリオ家の人々をラティアは知らない。そこにはラティアの血縁者たちがいるのだろうが、母の存命中に母に会いに来るものは一人もいなかった。
母が亡くなった時でさえ、誰も来ることはなかった。
葬儀もなかったのだ。父は母の死を誰にも知らせなかったのかもしれない。
だが、噂ぐらいは届くだろう。もしも気にかけてくれていたのなら、母は病死などせずにすんだかもしれない。
父は母を医師に見せることもなく、薬を買うこともなかった。
母が病に臥せっていた時も、父は家に帰ってくることさえなかったのだ。
ラティアは衰弱をしていく母の顔を水で湿した布で拭うことぐらいしかできなかった。
母が亡くなると、誰かが父にそれを知らせたのだろう。父がすぐに、義母たちを連れてやってきた。
それからラティアはすぐに義母によって地下室に閉じ込められた。
飢えと寒さと悲しみで、きっともうすぐ母の元に召されるのだと、冷たく暗い地下室の床に転がっていたラティアに待っていたのは、それよりももっとひどい現実だった。
それから八年間、ラティアはずっと使用人の鼠だったのである。
ラティアに手を差し伸べてくれたのは、アレクシスだけだ。
「……ラティア、何かあったか」
「旦那様……?」
「本を読めと言ったのがいけなかったか。さして深い意味はなかったのだ。お前がそれを苦痛だと考えるとは思わなかった」
「い、いえ、私……そんなことは。本を読めるのは、嬉しいです。もう八年も、本に触れさせていただくことはありませんでしたから」
湯あみから戻ってきたアレクシスが、髪を拭くのもそこそこにラティアの元に急いでやってくる。
顔を覗き込まれて、ラティアは不思議そうに目をしばたかせた。
アレクシスの指が伸び、ラティアの目じりに触れる。
何かをぬぐうようにされると、離されたアレクシスの指が濡れていた。
「これは、どうして……」
気づかなかったが、気づけば涙で視界が滲んでいる。
一度目を伏せると、溜まっていた涙がこぼれたので、ラティアは袖でごしごしと瞳をぬぐった。
「あまり擦るな。腫れる」
「もうしわけありません、旦那様。どうしてでしょう。私は、旦那様に助けていただいて、幸せだと思っていたばかりなのに……」
辛いことにも暴力にも、怒鳴り声にも慣れてしまった。
それなのに、優しくされるとこれほどまでに、胸がいっぱいになってしまう。
何も考えられない、ただ役目をこなすばかりの人形から、人間に戻っていくようだった。
「辛く苦しい毎日を送っていれば、心がすり減る。お前は泣くことさえ、忘れていたのだろう」
「よく、わかりません。お見苦しい姿をお見せしました」
「お前は何故、おびえている? お前が泣くと誰かがお前を叱責したのだな」
「っ、は、はい。お義母様や、妹に……」
幼いころは、命じられた仕事が満足にできずに、また、母を失ったことの辛さもあり、よく泣いていた。
泣いているとうるさいと義母が言い、妹は義母の口調を真似てできそこないと、ラティアを罵った。
弟は、ラティアたちに関わりたくないというように、義母が金切り声をあげてラティアを罵り始めるとその場から去っていった。
そして、折檻があった。背を鞭で打たれて、地下室に再び閉じ込められるのだ。
だからラティアは、今でも暗闇が苦手だ。
「私はお前が泣くことを責めない。辛く苦しいときは、泣いてもかまわない。お前にはその権利がある」
「泣く、権利、ですか……」
「笑い、泣き、怒る。喜怒哀楽を表に出すことは、人に与えられた権利だ。私の傍にいるかぎり、お前はその権利を行使できる。……だから、おびえるな」
ぼろりと、大粒の涙がこぼれた。
アレクシスの腕がラティアに伸びて、抱き寄せられる。
逞しい胸に顔を埋めて、ラティアはしばらく肩を震わせていた。
自分の心はこれほどまでに脆く柔らかいものだったのかと、ラティアは驚いていた。
大抵の怖いことは、もう怖くないのだと思い込んでいたのに。




