幸せな巫女
湯あみを済ませ、宿に用意されている滑らかな絹の寝衣を着て部屋に戻る。
湿り気を帯びた髪を湯布でふきながらラティアがちょこちょことアレクシスに近づいていくと、彼は本から顔をあげた。
ラティアは本のタイトルをじいっと眺める。
「せ、て……?」
「聖典だ。リーニエと神獣、十二貴族について書かれている」
アレクシスは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに普段の表情になり口を開いた。
「十二、貴族」
「あぁ。私は熱心なリーニエ信徒ではない。教えについてもどうでもいいと思っていたが、お前を傍に置く以上、知っていたほうがいいと考えている」
「私も詳しいことはよく知りません。お母様が教えてくださったのは、お食事の前のお祈りぐらいでした。それは、教えの中ではいいものだから、と」
「そうか。お前も興味があれば読んでみるといい。聖典は大抵、どの宿の部屋にも置いてある。まぁ、まともな宿であればの話だがな」
アレクシスは本を閉じると立ち上がった。
ラティアは布で包んだルクエを腕に抱いて、彼を追いかける。
「旦那様、湯あみ、お手伝いをします。お体を洗います」
「……誰かにそれをしていたのか?」
「は、はい。妹の……。髪や肌を綺麗にするのは、得意でした」
「そのようなことはしなくていい。休んでいろ。私は一人で問題ない」
本当にいいのだろうかと思いながら、ラティアは頷いた。
高貴な人というのは、自分で自分のことをしないものだ。ラティアの家族はそうだった。
湯あみも着替えも、落ちたものを拾うことも、荷物を持つことも一人ではしない。
アレクシスがいなくなり、ラティアは所在なく視線をさまよわせたあとに、アレクシスが座っていた椅子にぽすんと座る。
しっとり湿ったルクエが『僕は洗わなくても綺麗だ、犬ではないのだから』と腕の中で文句を言っている。
ラティアは分厚い本の表紙を手で撫でた。
アレクシスに言われた通りに本を開いてみるが、難しい単語ばかりで虫食いのようにしか読み取れない。
字が全く読めないわけではないが、難しいものはわからない。
「かつてこの大地は、魔竜により支配されていて人々はおびえて暮らしていた。リーニエは……」
『リーニエは、人々を哀れみ力を与えた。特に強い魔力を与えられたのは者たちは魔竜を討伐し、やがて彼らは十二貴族と呼ばれた。リーニエはそのうちの一人と愛し合い、人々に癒やしと助言を与え続けた。リーニエが死を迎えると、その力は力を引いた者たちに受け継がれることになった』
「それが、お母様、そして、私」
『あぁ、そうだね。僕たちはその時から、リーニエの傍にいた。彼女の力で生み出され、それから、彼女の力を受け継ぐ子たちの傍にいるようになった』
ラティアは難しい文字を指で辿りながら、ルクエの言葉に耳を傾ける。
聖典にはおそらく同じようなことが書かれているのだろう。
十二貴族は今でも王国に残っている。その中の一つが、ヴァルドール家。
そして、ラティアの母が生まれた神官家だ。
ルクエは布の中からもぞもぞと動いて外に出てくる。
湿った毛並みがぺたんとしている。『お湯の中は気持ちがいいけど、外に出ると最悪だ』などと言いながらベッドの上にのって丸くなった。
「ルクエは、歴代の巫女の傍にいて、神殿……神官家で大切にされていたのですよね。お風呂も入ったのではないですか」
『神獣を風呂に入れる者などいない。なにせ神獣なのだから』
「ご飯も?」
『神獣は食べる必要がない』
「今日のご飯もおいしかったですね、ルクエ」
『あぁ』
「旦那様の傍にいると、いろんな楽しいことがあります。私はきっと、幸せな巫女です」
『そうなって欲しい』
ルクエは祈るように言って、それから丸くなって目を閉じた。
くうくうと寝息をたてて眠っているルクエは、小さな犬にしか見えない。
ラティアはしばらく星を眺めていた。こんなにゆったりとした穏やかな夜を過ごせる日がくるなんて、考えたこともなかった。
そういえば母は、神官家での思い出を話したことが一度もない。
ラティアは巫女としての母を、何一つ知らなかった。




