きらきらした、みたこともない景色
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ラティアはアレクシスの腰に腕を回した。
その背にぴたりと体をつけると、鼓動の音がする。
アレクシスとは、血の匂いがする男だ。それはきっと彼の魔力に関係しているのだろう。
血の匂いは、本当の血の匂いとは違う。それをラティアは知っている。
不出来を詰られて鞭で打たれると、皮がめくれあがって血が流れるのである。
血は鉄錆の匂いがするが、アレクシスのそれはどこかまったりと甘い。
鼓動の音を聞いて香りを感じながら、ラティアは流れていく景色を眺める。
軽やかに街道を進むディゼルの、蹄鉄が石を踏む音がぽくぽくと響いている。
よく整備された広い街道である。旅の者たちや、商人の馬車が行きかっている。
アレクシスに気づく者はいない。今日のアレクシスはシャツとウェストコートの上からマントを羽織っただけの軽装である。両手は黒い皮手袋に覆われている。
「旦那様に、誰も気づきませんね」
「兵を連れず一人で出かけるようなことはあまりない。それに、領民たちに顔を知られているわけではないからな。私はあまり人前に出る性質ではない。外に出るのは魔竜の討伐や、陛下の命令で軍を出すときぐらいだ」
「そうなのですね。旦那様はその力で多くの人々を守ってきたのですね。それならきっと皆、旦那様の姿を見ているのでしょう? 一目見たら忘れられないお顔をなさっているのに」
「怖い、か」
「い、いえ、とてもお綺麗という意味です」
「……そのように思う者はいない。恐れる者はあっても、な」
そうだろうかと、ラティアは内心首を傾げる。
彼はとても綺麗な人だ。ラティアを怒らない。鞭で打つこともない。高貴な血筋の人なのに、こんな自分に触れられても、嫌がったりもしない。
何よりも──彼の魔法は禍々しくも美しい。
命を削り国を守るなんてとても難しいことなのに、彼はそれをなんでもないことのように行っている。
その心根はとても清廉なものだろう。
ジルバは彼を親殺しと呼んだが、きっと何か、そうする必要があった大きな理由があるに違いない。
「旦那様はとても優しい人なのに、不思議です」
「優しい? 私が、か。そう思うのはお前ぐらいだ」
「私を救ってくださいました。では、旦那様の優しさを知っているのは、私だけ、ということにしておきますね」
それはとても──特別、という感じがする。
実際には、アレクシスの家の者たちも彼の優しさについて知っているのだろう。
だから皆、彼の傍にいて、彼に従っているのだ。
「マルドゥーク様のためにこうして動いてくださるのですから、とても優しいです」
「別に、あの男のためではない。お前がそれを望んだからだ」
「私が?」
「あぁ。お前は私の体を癒やした。恩がある」
「それは、私のほうです。たくさんご飯を食べさせていただいて、上質な服を着せていただいて、ベッドで眠ることができて……それに、誰にも叱られません。まるで夢のような暮らしです」
「お前は何故、フィオーレ家から逃げなかった? 神官家に逃げ込めば、少しは状況がよくなっただろう」
「……よく、わかりません。幼いころは、逃げることなど考えることができませんでした。そのうち、だんだん考えることが難しくなって。怒られて、命令されると、それが当然だと思うようになったのです。それに……いつもぼんやりしていました。空腹で、疲れていて、だからそんな気力もなかったのかもしれません」
「あぁ、そうか。……くだらないことを聞いた。許せ」
「いえ、そんなことは……」
謝罪をする必要がない。彼の疑問は当然だ。今のラティアでも、過去の自分を不思議に思うぐらいだ。
もう十八歳である。十分に大人だ。
いつまでも、あの家の者たちに従う必要などなかった。
どこかに逃げて働けば、どんな形であれ生きることができただろう。
「苦境に立たされると、次第にまともな思考さえ奪われる。暴力で兵を従順に従わせることができるのと同じだ。ラティア、お前はもうあの家とは無縁だ。だから、忘れろ」
「……はい、旦那様」
景色が変わっていく。草原には光が降り注ぎ、風の匂いも感じる。
こんなにも、世界は綺麗だったのだなと、ラティアは胸が詰まるような気持ちでその風景を眺めた。
空も太陽も風も草花もいつでもそこにあったのに、今までのラティアはまるでそれが見えていなかったのだ。




