98 暇人と殺気
風の聖堂は、リングーシー領の最大都市からほど近い丘の上に建っている。
なだらかな起伏に広がる草の絨毯。麗らかな風につつまれた聖堂は、都市の喧騒や魔物被害とは無縁にみえた。丘に、登るまでは。
「たくさんありますから……ゆっくり、進んでください」
拠点となる聖堂に着いてから、五日が過ぎていた。ジルは今、食堂で配膳を手伝っている。
つぶした豆をじっくりと煮込んだスープ。薄い生地にチーズを巻いたパン。ミルク。本日の昼食を載せたトレーが順に渡されていく。けして狭くないここは、領民で一杯になっていた。
「今のかたで、最後です」
「りょーかい。また手が空いたら頼むよ」
全員に配り終えたとジルが調理場に顔を覗かせれば、料理人から息をつくような声が返ってきた。
無理もない。ここで寝起きする人の数が倍以上になっているのだ。風の聖堂は、魔物に追われて住むところを失った人々の、一時避難所として門を開いていた。
料理人に一礼して、ジルは食堂を出る。ここでも銀色の髪は珍しいようで、たびたび奇異の目で見られた。ジルのことを妖魔だと言う人はいないけれど、不安にさせるのは本意ではない。憔悴している難民に少しでも安心して貰うため、ジルは進んで教会の仕事を手伝っていた。
リシネロ大聖堂に比べれば、風の聖堂の規模は小さい。それでも女神ソルトゥリスを象徴するステンドグラスや祭壇は荘厳で、あたたかな光に満ちていた。
聖堂を出て、おだやかな風に撫でつけられる草地を進む。神官の居住棟に向かえば、弦を引く音が聞こえてきた。
「昼食のご用意、ができました」
弓の稽古を行うセレナとルーファスに声をかけている途中、横合いから鋭利な気が飛んできた。出所は分かっているため、ジルはそれを無視して二人に近づく。飛ばしてきた相手も慣れたもので、すぐにいつも通りの無感動な気配に戻っていた。
「うぅ……腕がおもりみたい。ご指導、ありがとうございました」
「午後からは教養の勉強です。引き続き、頑張りましょう」
弓持つ手をだらりと下げたヒロインに、笑顔で風の大神官は追い打ちを掛けている。
セレナは現在、午前中に弓や魔力の特訓を行い、午後は勉強という日程で過ごしていた。
神官服を着ているのだから、試験に合格しうる知識を身に着けているのでは。そう訝しがられそうなものだけれど、そこは誰にも指摘されていない。セレナはリシネロ大聖堂の神官だ。勉強熱心なのだと思われているのだろう。
ルーファスは教理を、教養は別の神官が教鞭を執っている。ラシードは衛兵がいない場所では護衛として控えていた。
つまりここでのジルは、暇人なのだ。
◇
居住棟での昼食を終え、セレナを図書館まで送り届けたジルは聖堂内の清掃を行っていた。一般教徒は立入禁止の区域から始めて、聖堂を閉めたら祭壇まわりを掃除する。
――教会領に居た時と同じことしてる。
場所が変わっても、姿を偽っても同じことをしている自分がおかしく、笑みが零れた。
最後の長椅子を拭き終わり窓に目をやると、夕刻が迫っていた。セレナの勉強が終わる頃合いだ。ジルは手早く掃除道具を片付けて図書館へと急ぐ。
目的地が近づいて来たころ、また殺気が飛んできた。
「バクリー騎士様、お手合わせは月に一度です、よね?」
「……」
「待機ばかりで、体が鈍っていらっしゃるのは、分かりますけれど」
「……」
「しません、よ」
図書館の扉横で控えている護衛騎士は、顔を正面に向けたままだ。一度もこちらを見ていない。けれども均整のとれた長躯にまとわせた気配が、なによりも雄弁に語っていた。
セレナの魔力制御は始まったばかりだ。実地訓練を行う段階ではない。そういってジルは、手合わせを先延ばしにしていた。
初めてラシードから殺気を飛ばされたのは、教会領を出て二日目のことだった。
一日目に何かやらかしてしまったのかと、ジルの心臓は縮み上がった。原因はなんだと記憶を全力でさらった結果、戦闘狂いの評にいきついた。
意図するところに気が付けば対処は簡単だった。不意に飛んでくる殺気は、平静を保つよい訓練だとジルは思っている。だからラシードに、殺気を向けないで欲しいとは言わなかった。




