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傾界の聖女  作者: たま露
【風の領地 編】
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96 護衛騎士 ラシード・バクリー

視点:ラシード

 視界の端に銀色の頭が入り込んできた。


 洗い立ての髪は乾ききっておらず、毛先に水が溜まり始めている。剣に落ちれば手入れはやり直しだ。ラシードは手元を熱心に見ている少年を追い払った。


「あ、すみません」


 少年が慌てて頭を引くと、花のような甘い香りがした。貴族を対象とした宿だ。石鹸に惜しげもなく香料が使われているのだろう。


 剣身を拭い終わったラシードは、少年に構わず手入れを続ける。両面に瑕疵が無いことを確認し顔を上げれば、向かい側の椅子に座った少年が長剣の手入れをしていた。慣れた様子で動きに迷いがない。ウォーガンによく仕込まれているのだろう。


 ラシードは当初、少年に興味は無かった。


 この少年に限らず、弱い者は今でも忌避している。先刻の会食で聖女に魔力制御を教えて欲しいと言われた時には、軽い苛立ちを覚えた。


 職務は完遂する。しかし護衛に訓練は含まれていない。弱い者はすぐに壊れる。そんなものが近くにあっても邪魔なだけだ。


 それよりもラシードは、少年の実力が気になっていた。


 二年前、初対面にも関わらずラシードは少年から射殺さんばかりに睨まれた。それの真意に興味は無い。しかしウォーガンが稽古をつけている子息だと聞き、どんなものかと相手をしてやった。その時は、従卒達よりはましという程度だった。


 デリックと手合わせをした時は、動きが悪かった。長剣の大きさを変えたからだろうとデリックは言っていたが、自分には関係無いため聞き流した。


 姉だと名乗る少女が演習場に現れた時は、違和感を覚えた。


 少年と同じ容貌にもだが、神官見習いにしては観察眼があり、視線には初対面時に少年から向けられたものが含まれていた。デリックがその姉弟に入れ込んでいると耳にしていたが、どうでもいい情報だった。


 ラシードは第五神殿騎士団に戻った後も、ウォーガンに稽古をつけて貰っていた。


 あの日もそのために北方騎士棟を訪れていた。酷く取り乱していた少年は、大剣を見て間違えたのだろう。


 夜番の騎士に任せても良かったが、その症状が妹の発作に似ており介抱してしまった。抱え上げた少年の体は、本当に鍛えているのかと疑うくらいに軽く、やわらかかった。


 苦しかった呼吸が戻り安心したのだろう。紫色の瞳を潤ませて笑む姿に、言い知れぬ不安感を覚えた。


 聖女の従者だと紹介されたとき、ラシードは少なからず驚いた。これまで少年から漏れていた殺気が、消えていた。それ程までにこの少年は、自分を殺したいのか。


 出立の日、宿泊棟の裏手で素振りを始めたため軽く遊んでみれば、思いのほか良い反応が返ってきて面白かった。


 狼の魔物を討伐した時は戦場が離れており、ラシードは少年の動きを観察できなかった。片手に余る魔物と対峙していたようだが、場は荒れていなかった。的確に仕留めたのだろう。


 どこまで戦えるのか知りたい。少年に興味が湧いたラシードは、魔力制御の訓練にかこつけて手合わせをねじ込んだ。


 ◇


 ラシードが浴室から出ると、少年は寝台の上にいた。手入れの済んだ長剣を横に置き、寝息を立てている。上掛けを被っていないところをみると、自分が出てくるのを待っていたのだろうか。


 ――寝首でも掻かれるかと思ったが。


 相部屋を申し出たのは、少年がどのような動きをするか見定めるためだった。


 風邪でも引いて足手まといになられては面倒だ。ラシードは睡魔に負けた少年と寝台の間に腕を差し込み、体を浮かせる。下敷きになっていた上掛けを引っ張り出したところで、動けなくなった。


「……ィ、さむい」


 まんまと寝首を掻かれてしまった。ただし、眠っているのは首を取った方なのだが。


 暖を求めた少年の細腕が、ラシードの首に巻きついている。


 これは寝言というより寝相ではないかと溜息が漏れた。快適な温度だったのだろう。少年は自身の方にラシードを引き込もうとしている。花のような、石鹸の甘い香りが近づき鼻についた。


 自分は首の鍛錬でもしているのだろうか。ラシードは少年を寝台に下ろし両手を自由にした。うつ伏せ気味の姿勢で首に回った両腕を外す。そこで、不可解なものを見た。


 ――傷が無い?


 あれだけ戦えるのなら、手のひらは剣ダコやマメだらけになっている筈だ。しかし癒えた痕はおろか、少年の手はやわらかなままだった。


 この異様は気になったが、ラシードにはもう一つ気になる事があった。


 ――これだけ触っても目を覚まさないのは問題だな。


 野営や戦況下ではこの油断が命取りになる。ラシードは少年に上掛けを被せながら、鍛える方法を考えていた。

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