91 提案と故郷
昼食を終えた聖女一行は再び街道を進んでいる。
「弓をですか?」
「護身程度でも、心得があるのとないのでは、気持ちも……違うと思うんです」
ジルは今、馬車の中にいた。川原から出発する際、ルーファスだけでなくセレナにも声をかけられてしまった。とても、断りづらかった。
それなら良い機会だ開き直り、ジルはヒロインの戦闘熟練度を上げるための提案をしていた。横に座っている風の大神官から、正面のセレナに視線を移す。
「前線には送り出せないので、弓を。セレナ神官様が、お嫌でなければ……ですけれど」
「私、やってみたいです」
休息をとり緊張が和らいだのか、セレナの顔色は良くなっていた。
戦い方をまったく知らないというのは、やはり不安だったのだろう。ジルの提案にヒロインは前のめりだ。これまで思案顔をしていたルーファスの表情が、いつもの眉尻を下げた笑みに変わった。
「それでは、弦を引くことから始めましょうか」
「ありがとうございます。私、頑張ります!」
ルーファスが弓の指南役を受けてくれたことに、ジルはほっと息をついた。意気込むセレナに向けられた緑の眼差しは、やわらかな色をしている。
――第一歩のお手伝い、できたかな。
顔を見交わせて語り合うヒロインと風の大神官の雰囲気は悪くない。弓の稽古を通じて、二人はもっと仲良くなるだろう。
「二本同時に射るなんてビックリしました」
お助け役らしい仕事ができたとジルが感慨に耽っていると、気になる言葉が耳に入った。
狼の魔物と戦った時のことを話しているようだ。憧憬を覗かせたセレナの声に、ルーファスは眉尻を下げて微笑んだ。
「まだ精度が悪いんです。領兵や神殿騎士にも同行したんですけれど」
ジルが見た限り、矢はすべて魔物を貫いていた。的は、移動していたにも関わらず。
あれで精度が悪いなら、ルーファスは何を狙っていたというのだろうか。そして今、ジルは風の大神官の戦闘熟練度が高い理由が分かった。ゲームのルーファスは司教補で、戦地には出向いていない。
「ずっと……魔物討伐に参加していたのです、か?」
「生界の安定に尽くす。ジル嬢と、そうお約束しましたから」
恐る恐るジルが尋ねると、当然だと言わんばかりに頷かれた。エディの姿を通してジルを見ているのだろうか。緑の瞳は揺るぎない。
所詮、神官見習いの言葉だ。ルーファスの立場なら、そう捨て置くこともできたはずだ。それを取り上げてくれたのは嬉しかった。
けれど同時に、無理をさせてしまったのではないかと気が咎めた。
「あの、ジル嬢というのは?」
この名が出たのは本日二度目だ。セレナが髪を揺らして小首を傾げている。
「僕の姉です。風の大神官様と、お知り合いで……」
「わ、エディ君にはお姉さんがいるんですね」
姉は神官見習いをしていると話せば、いつか会えるだろうかとセレナは微笑んだ。それから話題はセレナには八歳年下の妹がいること、実家はリンゴ農家であることに及んだ。
「五ノ月になると、白くてかわいい花を咲かせるんです。それで、」
楽しそうに家族や農園のことを話していたセレナの顔が曇った。具合が悪くなったのかとルーファスが問えば、淡紅の金髪が左右に揺れる。
「家族でお花見したことを思い出してしまって……。子供みたいですよね」
「僕、観てみたいです。リンゴの花」
「え?」
「風の大神官様。神殿へ行く前に……セレナ神官様のご実家に、行けませんか?」
心細いのだろう。セレナは寂しそうに笑んでいた。
ジルの故郷はもう無い。懐かしいと心を馳せる場所があるのは羨ましく、そして、ヒロインには喪って欲しくなかった。ジルが隣へ首を傾げれば、ルーファスは顎に指をあて考え込んでいた。
「ご出身はリッサの町でしたよね」
「はい」
「神殿で儀式を終えた後でしたら、立ち寄る時間はあるかと」
「それだと……花が、散ってしまいます」
ルーファスが提示した時期では遅い。風の神殿の扉が開かれるのは、五ノ月末日だ。神殿から聖堂までは片道一日。聖堂からリッサの町までは、三日間を要する。
――ヒロインが聖女として決意を固める事件だけれど。
五ノ月二十四日に、リッサの町は魔物に襲われる。風の聖堂に急報が届いた時にはもう、すべてが散っていた。




