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傾界の聖女  作者: たま露
【風の領地 編】
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87 日課と教養

 翌朝、ジルは陽が昇る前に目覚めた。客室内に設けられた浴室で顔を洗い、髪を軽く整える。


 ――楽だ。


 背中のあたりで切り揃えていた髪は梳かすのに時間がかかっていた。けれど今は二、三回手ぐし通すだけで済んだ。首周りに直接空気があたり、少し落ち着かない。


 外はまだ暗いため、ジルは魔石ランプを点けて身支度を整えていた。出発まで時間がある。日課の素振りをするため、荷物をまとめて宿泊棟の裏手へと向かった。


「ぁ……おはようございます」


 常夜灯のそば近くには、先客がいた。ジルが挨拶をすれば、大剣を振る手が止まった。朱殷色の瞳がジルに向く。しかしラシードは何も言わず、素振りを再開した。


 ――すごい音。


 大剣が振り下ろされるたびに、分厚い風を割るような音がした。


 ラシードはウォーガンほど体が大きいわけではない。それでも均整のとれた長躯と、鍛え上げられたしなやかな筋肉が、斬撃に圧倒的な重みを生み出していた。


 思えばジルがまともにラシードの剣筋を見たのは、これが初めてだ。


「物見に来ただけか」

「えっ、いえ」


 護衛騎士の一挙手一投足を観察していると、唐突に声をかけられた。そういえば自分も鍛練にきたのだと思い出し、ジルは鞘から長剣を引き抜く。


 大剣に比べれば随分と細いけれど、ウォーガンから貰った長剣は夜明け前でも輝いてみえた。


 ――ん? 今。


 ジルが剣を振っていると、風を割るような音が聞こえた。それはずっと隣から聞こえていた音に変わりはないのだけれど。


 試しにジルは短い間隔で二度長剣を振る。呼応して、ラシードの大剣も短い間隔で二度動いた。


 ――やっぱり。それならこっちも。


 ジルが挑発するように宙を突けば、大剣は盾の動きをし剣先は返されてしまった。直接刃を交えることはないけれど、それは音を介して手合わせをしているようで面白かった。


 一言も喋らず二人で剣を振っていると、空が白み始めた。朝早い者なら活動を始める頃合いだ。


 ヒロインと風の大神官も支度を整えて正面口にいるかもしれない。ラシードもそう考えたのだろう。大剣を背負った護衛騎士はジルを一瞥して歩き出した。


 ◇


「聖……風の大神官様、セレナ神官様、おはようございます」


 宿泊棟の中から揃って出てきた二人に、ジルは一礼した。ヒロインは神官に扮しているため、今は風の大神官の方が役職は上だ。ジルは聖女様と言いかけた言葉を飲み込んだ。ラシードは手早く騎士の礼をとったあと、感情を窺わせない顔で控えていた。


「それでは出発しましょうか」

「「はいっ」」


 ルーファスの音頭に、緊張と意気込みで硬くなっている二つの声が重なった。


 教会領は五角形の塀に囲まれており、塀の外には濠がめぐらされている。リングーシー領へ行くには、西門の跳ね橋を通る必要があった。


 そこの門前に馬車と馬が用意されており、一つ目の宿場まではそれで移動するとのことだった。


「どうぞ、セレナ神官様」


 東の空では太陽が目を覚まし、金色の帯を巻いている。


 ジルは二頭立て馬車の前に着くと、ヒロインへ片手を差し出した。教養の講義では、こうやって馬車に乗るのだと教わった。とはいえ、今のジルはエスコートされる側ではなく、する側だ。だから手を伸べた。


 のだけれど、セレナはジルと手を交互に見るだけで動こうとしない。


「すみません。僕では少し、低いでしょうか」


 ジルとセレナの身長はほぼ同じだ。きっと、支えとして利用するには心許ないと思われたのだろう。表情は動かさず静かに詫びれば、遠慮がちに白くやわらかな手が添えられた。


「馬車にまだ慣れてなくて……ありがとうございます」


 桃色の花が綻ぶように、ヒロインはふわりと微笑んだ。セレナが席に着いたのを確認して馬車から下がれば、少し驚いた表情で風の大神官が見ていた。


 ――とても可愛らしい笑顔だったから、見惚れてたのかな。


 気を取り直したルーファスからジルも中へと誘われたけれど、自分は馭者台に座らせて貰うと辞退した。


 護衛騎士は警護のため馬で並走する。だから馬車の中はヒロインと、風の大神官の二人きりだ。ゲームの序盤だから儀式の説明が主で、お菓子のように甘い雰囲気にはならない。


 でも、この街道でイベントがあったはずだ。


 ヒロインにはまだ攻略対象二人の印象は訊けていない。だからとりあえずは、誰とでも親密になれるよう支援していれば問題ないだろう。


 動きはじめた馬車の上。馭者の隣に座ったジルは、下ろされた跳ね橋の先を見る。


 ――二人が仲良くなる第一歩!

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