86 確認と間違い
従者のエディにまで丁寧に接するルーファスの物腰は、まさに神官の鑑だ。
今日はもう外出しないと思っていたから、コートとベストは脱いでいる。けれど人前に出られない恰好ではないため、着直す必要はないとジルは判断した。
すぐにルーファスを部屋に通し、テーブルに食器が残っていることを詫びる。
「こちらこそ、急にすみません。確認しておきたかったものですから」
「確認、ですか?」
二人は今、客室に備え付けられたソファに座っていた。正面にある瞳は、部屋に入った時からジルに張り付いている。
先の顔合わせで交わした言葉は少ない。ルーファスに正体は見破られていないだろう。とはいえ、ずっと見詰められるのは何とも居心地が悪かった。
「僕の顔に、なにか……」
「エディ君に、お姉さんはいらっしゃいますか?」
「はい」
安堵の色がありありと見えた。真剣な眼差しをしていた緑色の瞳は緩み、深く息を吐いている。それからルーファスは飴色の眉尻を下げて、口元に笑みを刷いた。
「お姉さんと似ていらっしゃいますね」
「よく、間違われます」
「ジル嬢はご息災でしょうか? 本当はご挨拶に伺いたいのですけれど」
「今は……近づかないほうがいいと、思います」
ジルの忠告にルーファスは顔を曇らせた。体調を崩していると勘違いさせてしまっただろうか。誤解を正すべくジルは言葉を続けた。
「僕が従者になること、姉には黙っていたので……きっと、怒っています」
怒っていて欲しい。呆れるだけでも、無反応でも構わない。ただ、エディが泣いていませんように。ジルはそれだけが心配だった。
「それでは報告で帰領したとき、一緒に謝りに行きましょうか」
「一緒に、ですか……?」
表情は変えていないけれど少し俯いてしまったため、ルーファスに気を遣わせたようだ。ジルが言葉を繰り返せば、困ったように微笑んだルーファスと目が合った。
「僕もジル嬢に、お詫びしたいことがあるんです」
――何かあったっけ?
ジルが礼儀を欠いたことは多々あれど、品行方正なルーファスに失礼なことをされた覚えはなかった。
それでも何かないかと絞り出せば、聖女に間違えられたことくらいだ。先ほど本物の聖女、ヒロインに逢ってはっきりと認識したに違いない。ここは早めに気にしていないと伝えた方が、ルーファスの精神衛生上良いだろう。
「誰にでも……間違いはある、と。姉は気にしていないと思います」
自分たち姉弟はいつも情報共有を行っている。詳細までは分からないけれど、そんなことを言っていたとジルは説明した。
これで憂いは晴れるだろう、そう思っていたのに。ルーファスの顔はますます曇り、若葉色の瞳は萎れていた。もしや触れてはいけない傷となっていたのだろうか。
「風の大神官様を、支持するのは変わらない……とも言っていました」
「ありがとうございます」
抉ってしまった傷を繕おうと、ジルは慌てて言葉を紡ぐ。本調子とはいえないけれど、ルーファスから微笑みが返ってきた。
――この件については、今後も触れないでおこう。
ジルが心の中でそっと決意していると、新たに扉を叩く音が聞こえた。時間からして給仕係が食器を下げに来たのだろう。入室を許可すれば果たして予想通りだった。テーブルが綺麗に片付き給仕係が退室すると、ルーファスがソファから立ち上がった。
「明日は早いのに、長居してしまい失礼いたしました」
「僕は従者ですから……お気遣いは不要です」
ジルも合わせて立ち上がり、扉まで風の大神官を見送る。これではどちらが主人か分からない。貴賤の別なく接するルーファスに、ジルの口元は微かに緩んだ。
「あの、エディ君は弟……ですよね?」
「? はい」
「すみません。可笑しなことをお尋ねしました」
ジルが小首を傾げて肯定すれば、質問したルーファス自身も不思議がっているようだった。それから就寝の挨拶を交わし、ルーファスの背が見えなくなってからジルは部屋の扉を閉めた。
「はぁー」
靴を脱ぎ捨てたジルは寝台に倒れ込んだ。ぼふりと沈む体にため息が零れる。
宿泊棟に泊まるなんて初めてだ。奉仕中に一度乗ってしまったことはあるけれど、あの時はそれどころではなかった。
押せば跳ね返ってくる寝台の感触は新鮮で、常であれば心ゆくまで堪能しただろう。でも今は、そんな気分ではなかった。
ジルはそのままごろりと回転しながら体に上掛けを巻きつける。寄宿舎の自室でひとり、硬い寝台で眠るであろう弟を思うと胸が痛んだ。
――でも、それを選んだのは自分だ。
布団に包まり小さく丸まったジルは、広い寝台の上でひとり眠りについた。




