83 辞令と契約
背を向けてその場で片膝をつく。首元に羊皮紙が置かれた。その上から誰かが手を押し当てている。しばらくすると首がじわりと熱くなり、ピリッとした痛みが頭の天辺から足の爪先まで走った。
「これよりは聖女様の命令に背くことはできない」
期間は聖女の儀式を終えるまで。完遂した暁には解除する、と教皇の近侍は淡々と告げた。
従属の契約を結んだジルは立ち上がり、体の向きを戻す。再び跪き、首を垂れた。
「エディ・ハワード。聖女セレナ様に、一心一意、お仕え致します」
◇
三ノ月七日の午後講義終わり、ジルはウォーガンの執務室に呼び出されていた。
エディに従者の辞令が下されたのだ。
今日の十八時にリシネロ大聖堂東棟、百合の間へ来るようにと教皇の近侍から書簡が届いたらしい。その書簡は燃やすようにと指示されており、今は灰となっていた。
「最後にもう一度訊くぞ。入れ替わりをやめる気はないんだな?」
「はい」
ジルはウォーガンを真っ直ぐに見上げた。答えは七年前、夢をみた時から変わっていない。これからゲームが始まるのだと思えば、沸き立つ心地さえした。
「エディには十七時半に来るよう指示している。その時に入れ替われ」
「説明は……」
「俺からする。エディが入ってきたら、すぐに部屋を出ろ」
「弟を、よろしくお願いします!」
ジルは限界まで頭を下げた。自分では、エディに上手く話せる気がしなかった。
ウォーガンには迷惑をかけっぱなしだ。下げたジルの頭が軽く沈む。剣ダコでゴツゴツした手に、頭をわしゃわしゃと撫でられた。
ジルは義父の手が好きだ。姉弟を、領民を護ってくれる大きくて強くて、やさしい手だ。
「服を置いている。着替えておけ」
そう促され、ジルは執務室と続きになっている仮眠室に入った。そこにはゲームと同じ衣装が掛けられていた。
ウォーガンには服のことまで話していない。先ほどまでの勇み立つ心はどこへやら。夢の通り進んでいるのだと再認識して、ジルは身震いがした。
息を吸い込み、長く吐き出す。心音が小さくなるまで、ジルは何度も繰り返した。
「よし。大丈夫」
神官見習いの法衣を脱いで、パンツに足を通す。シャツの上に防具を兼ねたレザーベストを着て、靴と手袋をはめる。一緒に置いてあった短剣を腰につけ、最後にケープコートを羽織れば、ゲームのエディがそこにいた。
――あ、でも一つ違う。
壁掛け鏡で変なところは無いかと確認して仮眠室を出ると、長剣を手にしたウォーガンが待っていた。
「ウォーガン様、この服は?」
「シャツなんかは騎士団の支給品だ。コートはエディの誕生祝いに渡す予定だった」
「返します」
弟への贈り物を横取りするなんてありえない。ジルはコートを脱ぐため合わせ目に手をかける。けれどその上からウォーガンに長剣を押し付けられ、両手は塞がってしまった。
「いい着ていけ。エディにはもう別のを渡した」
「…………分かりました」
「それは真剣だ。刃は潰れてないから扱いに注意しろ」
「新しい剣! ありがとうございます!」
ウォーガンから貰った訓練用の長剣は刃こぼれが増え、ボロボロになっていた。
ジルは手にした長剣を鞘から引き抜く。長さや重さは使い慣れた物と同じですぐに馴染んだ。部屋の隅に移動して軽く振ったあと、ジルは首元に刃を向ける。
「ジル!!」
ウォーガンの制止を無視してジルは斬り上げた。
ザクッという感触のあと、銀色の髪がぱらりと落ちる。そうやって長剣でザクザクと髪を斬り、短剣に持ち替え首元がすっきり整ったところで、ジルは剣を鞘に収めた。
「これで、ゲームと一緒。こんなに短いのって、いつ振りだろう」
「お前……驚かせるんじゃない」
「言ったら止められるかな、と思って。……ごめんなさい」
義父は以前、勿体ないと言ってくれた。だから何も言わずに髪を切った。
今のジルは弟のエディだ。表情を動かさないように意識して、静かに返した。ウォーガンは、はっとしたように息を呑み、深く息を吐いていた。
二人で床に散らばった髪を掃除し終えたころ、執務室の扉が叩かれた。
約束の時刻だ。
「エディです。用命に従い、伺いました」
扉横の壁に素早く控えたジルはウォーガンに頷く。呼吸を深くして、はやりそうになる心臓を鎮める。
「ああ、入れ」
「失礼します。っ、姉さん!? なんっ」
「ごめんね、エディ」
弟が部屋に入ったと同時に、ジルは背中を押した。驚きに満ちた声は、扉で閉じ込めた。そのまま廊下を駆けて北方騎士棟を出る。演習場を抜けた後は、できるだけ人に会わないよう気を付けながら足早に東棟を目指した。
ジルの代わりに義父は沢山エディに責められるだろう。ジルも次に逢った時はこってり絞られるに違いない。それは、とても楽しみなことだった。




