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傾界の聖女  作者: たま露
【風の領地 編】
83/318

82 聖女 セレナ・クラメル

視点:セレナ

「お母さーん、私ちょっとリンゴみてくるー」

「明日は成人礼拝なんだから、早く帰って来なさいよ」

「はーい!」


 セレナは明日、十六歳になる。その記念に今日の朝、家族と一緒にリンゴの木を植えた。


 リングーシー領、別名風の領地と呼ばれるここは温和な気候で、農業や酪農が盛んだ。両親はリンゴ農家を営んでおり、セレナは植えつけた苗木に足を運んでいた。


「元気に大きくなってね」


 膝下にも届かない小さな木の前にしゃがみ、葉のない枝を指先でつんと触る。実をつけるのはまだまだ先だけど、セレナは今から待ち遠しかった。


 リング―シー領内でも教会領に近いこの農園は、まだ魔物の被害を受けていない。だけど中央より外の被害は増えるばかりで、物価は高騰し続けていた。


「リンゴができたら、困ってる人達にあげたいな……」


 農園のリンゴは両親のものだから、勝手に配れない。でもこの苗木の所有者はセレナだ。収穫量は知れたものだけど、なにもしないよりずっといい。


 セレナは孤児院や、町教会がおこなう炊き出しを手伝っていた。そこには身寄りのない子供、働けなくなった大人、魔物に故郷を追われた人など大勢が列をなしていた。


「お姉ちゃーん! 夕飯できたってお母さんが呼んでるー!」


 遠くから聞こえた妹の声でセレナは顔を上げた。家の方から小さな影が手を大きく振っている。しゃがんでいたセレナは立ち上がり、スカートの裾を軽くはたく。


「今から帰るー!」


 セレナも大きく手を振り返すと、妹は早く早くと両腕を上下させた。その動きが可愛らしくて笑みが零れる。駆け足でそばに行き、妹と手を繋いでセレナは家路に着いた。


 ◇


「変じゃない?」

「とっても似合ってるわ。ね?」

「ああ、セレナも大きくなったな」

「お姉ちゃん、かわいい!」


 姿見鏡には十六歳を迎えたセレナが映っていた。肩下まで伸びた淡紅の金髪は、側頭からゆるく編み込まれ、後ろで一つにまとめられている。


 毛先と襟足をまとめた部分には、母が瞳と同じ桃色のリボンを結んでくれた。耳前のおくれ毛はやわらかなカーブを描き、セレナの動きに合わせて揺れている。


 成人礼拝は、女神ソルトゥリスに無事成長できたことへの感謝を伝える儀式だ。服も、いつも着ているジャンパースカートではなく、真新しいワンピースに袖を通していた。


 春の到来を告げる薄紅の生地はふわりと軽く、セレナが歩けば風にふくらんだ。


「朝一番でお願いしてるんだ。支度がすんだなら行くぞ」

「「「はーい」」」


 母と姉妹が鏡の前であれやこれやと確認していると、父が痺れを切らした。


 いつも礼拝している町の教会へ家族で赴く。セレナの髪は金色に近い。それに教会の手伝いをしているためか、司教の覚えがよく、成人礼拝は和やかに進んだ。


 セレナの両手に、御印が浮かぶまでは。


 それは司教が定型句である女神への祈りを捧げた時だった。


 重ねていた手のひらから淡い光が生まれ、祭壇で跪いていたセレナの全身を包んだ。光は強さを増し、目も眩むほどの明るさとなったとき、粒となって周囲へ弾け飛んだ。光が消えた後には、文様が両の掌に浮かんでいた。


「なんだったのかな、今の」


 司教なら知っているだろうか。手のひらから司教へ視線を移したセレナは、戸惑った。なぜか司教が平伏している。


「ど、どうしたんですか司教様。お腹でも痛いんですか?」

「……聖女様ご降誕に、寿ぎ申し上げます」

「聖女様!? え、ここにいるんですか??」


 聖女は降臨祭の時にしか外出しないと聞いている。セレナは驚いて教会内を見回した。だけど家族しかいない。というか、父と母の様子もおかしい。長椅子に座ってぼーっとこちらを見ている。妹だけはいつも通りで、儀式に厭きたのか近づいて来た。


「お姉ちゃん、これなあに?」

「私も知らないの。司教様、何か分かりますか?」


 セレナはいまだ平伏している司教に手のひらを差し出してみせた。魔法の発動を示す文様に似ている。でも、このかたちは見たことがなかった。


 司教は許可なく面を上げる非礼を詫びたあと、文様のこと、そしてこれからの事を分かる範囲で丁寧に説明してくれた。


 ◇


 セレナは今、教会が手配した馬車に揺られていた。騎乗した衛兵九名が馬車を囲い、セレナの向かい側には司教と女性の使用人が座っていた。


「本来であればもう一台用意するところを……申し訳ございません」

「大丈夫ですよ。馬車が増えると衛兵さんも大変ですよね」


 セレナが笑って返したことで、司教と使用人はほっと息をついていた。


 成人礼拝のあと、セレナは一度だけ家に帰ることができた。両親ともに気が動転しており、正直なにを話したかセレナもはっきり覚えていない。


 ただ家を出るとき、母と父、妹に抱きついて泣いてしまった。


 ――私に聖女なんて、できるのかな……。


 がたがたと音をたて、馬車はセレナを運んでいく。

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