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傾界の聖女  作者: たま露
【教会領 編】
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80 高揚感と冷や水

 書庫のある西棟を出ると、空は小雨に変わっていた。


 ジルは夕食を摂るのも忘れて第二神殿騎士団へ足を向けた。雨粒がぽつり、ぽつりと頭や肩に落ちる。教皇に対して行った無礼の数々に肝を冷やしたけれど、熱に浮かされ消えていく。


 ジルは今、他者回復が使えるのだという高揚感に包まれていた。


「ジルです。お時間よろしいでしょうか」


 途中で騎士に止められることもなく、ジルは執務室にたどり着いた。扉を叩き返事を待つ。間髪を入れず入室の許可が出た。ウォーガンは訓練上がりのようで、手にタオルを持っている。


「ウォーガン様きいてください私」

「その前に拭いておけ。体が冷えるぞ」


 急ぎ伝えようと踏み出したジルの眼前にタオルが迫ってきた。


 ジルが使っても良いのだろうか。ウォーガンも訓練で雨に濡れたのでは、と窺えば頭にタオルを被せられた。大判の布に覆われて視界が狭まる。タオルの上から大きな手に押さえられ、髪の水分が吸われていった。タオルの隙間からウォーガンを見れば、騎士服は乾いている。


「来るんじゃないかと思っていた」

「どうして」

「エディが心配なんだろう?」


 聖魔法のことを知っているのかと続けようとしたところで、ウォーガンから弟の話が出た。


 もちろん心配だ。ケガをしていないだろうか。無理をして熱は出ていないか。自分のように淋しい思いはしていないだろうか。誰かにいじめられて、など考えはじめれば際限なく浮かんでくる。


「初日にしちゃよく付いてきてたぞ。ケガも無い」

「毎日、鍛練してましたから」


 ジルは安堵に微笑んだ。六日後には従卒でなくなることを思えば胸が痛んだけれど、ジルが頑張ればエディは再び従卒に戻れるのだ。そのためにも必ず成功させなくてはいけない。


 ウォーガンからタオルを引き取り、ジルは肩や裾についていた水滴を掃った。


「ウォーガン様は、ケガをしていませんか?」

「ケガ? 今日の模擬戦でラシードに焼かれたヤツならあるが……どうした」

「私、他者回復が使えるようになりました!」


 ジルが得意顔で宣言すれば、ウォーガンは何を言っているんだという顔をした。


 無理もない。ジル自身も教皇の傷を癒すまでは信じていなかったのだ。


 百聞は一見に如かず。火傷した箇所を見せて欲しいとジルが頼めば、訝りながらもウォーガンは裾をまくってくれた。脛にあるケガは炎が舐めたというより、一閃かすめたような線状に腫れていた。ジルは袖のなか、腕に巻いていた投擲用のナイフを取り出す。


「もしかして普段から着けてるのか」

「腕くらいですけれど」


 長剣、短剣、投擲用ナイフ。武器はウォーガンから譲り受けた。稽古の時はすべてを装備している。けれど衛兵や神殿騎士ではないジルは帯剣できない。だから法衣で隠せるナイフだけを身に着けていた。ジルは残念だと頬をふくらませ、ナイフで指先を切った。


「おい、何を」

「動かないでください」


 眉を顰めたウォーガンの足元にジルはしゃがみ込んだ。傷をつけた指先で、ウォーガンの火傷に触れる。自己回復を行えば、傷口から魔力の流出を感じた。淡い光が消えたとき、ウォーガンの脛にあった火傷も綺麗に消えていた。


 ――良かった。ちゃんと治った。


 何かの奇跡で一度だけ使えたのではないかと心配していたジルは、ほっと胸を撫で下ろした。


 他の聖神官達のように傷を癒せる。役に立てるのだと嬉しくて、ジルは心の弾むままに頭上を仰ぎ見た。けれど、ウォーガンは眉を顰めたままだった。


 信じて貰えなかったのだろうか。立ったままだったから見えなかったのかもしれない。他にもケガがあれば、もう一度回復させて貰おうと思いジルは立ち上がった。


「どうやってその方法を知った?」


 落ち着いてはいるけれど、低く硬い声音だった。ウォーガンが難しい顔をしている理由はそれだろうか。


 応接ソファに場所を移し、ジルは書庫で教皇に遇ったこと、その時に使い方を教わったと話した。ダーフィ猊下の名を出したとき、ウォーガンの顔は若干引きつっていた。ジルも同感だ。


「他にケガはありませんか。まだまだ治せますよ!」


 一度の治療なんて、受けた大恩に比べたら雀の涙だ。姉弟を引き取ってくれた義父には、求められるだけ何度でも治療を施そうとジルは考えていた。


 教会の教えには背いてしまうけれど、魔力はたっぷりある。さあ遠慮なくと意気込んでみせた直後、ジルは冷や水を浴びた。


「今後一切、他者回復は使うな」

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