79 切創と道
ナイフの刃先が立っていた。深い傷ではない。ナイフごと老人の手を掴み上げたジルは、何をするのかと怪訝な視線を向けた。
「自己回復をしながら、そちらの手で私の傷に触れてみなさい」
老人は切創のある腕をジルに突き出してきた。巻かれたハンカチーフはただの濡れ布巾となり、役割を果たしていない。
ジルが試さない限り、この老人はここから動かないだろう。ジルは邪魔なハンカチーフを剥ぎとり膝上に置く。
「治らなかったら救護室に行きますからね!」
「ほっほっ」
呑気に笑う老人をきっと睨みつけ、ジルは刺された方の手を傷の上にそっと重ねた。自動回復しないよう抑えていた魔力を緩める。ジルの指先にあった傷はすぐに塞がった。いつも通りの反応だ。
「な、に、これ……」
しかし同時に、異なる反応もあった。
これまで体内を循環するだけだった魔力が、ジルの指先から流れ出していた。
先ほどの傷が道なのだろうか。知らない感覚に肌が粟立つ。指先、正確には傷を負った箇所から淡い光が溢れだし、老人の傷を覆っていく。ジルの傷が塞がるのと同時に、光の放出も止まった。
「ほれ、治った」
老人の腕にまとわっていた光は消滅し、その下にあった切創は塞がっていた。
傷を負っていたなんて言われても信じられないくらい、綺麗に消えている。にわかには信じられず、ジルは矯めつ眇めつ老人の腕を確かめた。傷があったところを何度触っても、新しい血は出てこない。老人はただ目を細め、ジルの好きにさせてくれた。
「……もしや司教様、聖神官様では?」
「私は男じゃ。これはお嬢さんが癒したので間違いない」
聖神官は全員女性だ。男性の司教では成りえない。
ジルは八年間、魔力の講義を受けた。その間にいろいろと試し文献も探してみた。けれど結局、他者回復は使えなかった。
自分には才能が無いのだと諦めていた。堪えていた感情に体が震える。それでもジルは唇を引き結び、せり上がってくる想いを今は噛み殺した。鼻から空気を吸い込み、口からゆっくりと吐き出す。長椅子から立ち上がったジルは、深く深く頭を下げた。
「ご教授いただき、ありがとうございました!」
「礼は不要じゃ。これがお嬢さんにとって良いことか分からんでな」
「それは」
どういう意味かとジルが問おうとしたとき、扉の開く音が聞こえた。カツカツと鳴る硬い靴音は苛立ちを含んでいる。話を続けるのは難しそうだとジルは口を閉じた。
「迎えが来たようじゃ」
「なんですかこれは?」
「お主の水魔法なら簡単に片付けられるじゃろう」
司教の法衣とジルの法衣。長椅子と周辺の床は紅く染まっていた。刃傷沙汰はリシネロ大聖堂ではご法度だ。範囲は広くないけれど、書庫内はちょっとした惨状と化していた。
雨の湿気に古紙と鉄のにおいが混ざり、なんとも澱んだ空気となっている。書庫に入って来た男性は無言で老人の法衣に手をかざした。
「すごい」
生地に染み込んでいた血液が粒子となり宙に浮き上がっていく。男性は老人からジルへ、ハンカチーフ、長椅子、床にと手を動かし次々と紅をはぎ取った。そして、霧散させた。これを応用すれば人の水分も、と恐ろしい想像がジルの脳裏に浮かぶ。
「戻りますよ。ダーフィ猊下」
「今は司教じゃ」
「替えの衣が用意できましたので終わりです」
「お嬢さん、またの」
老人が猊下と呼ばれた時からジルは床に伏していた。
聖女と教皇を迎える際は、許しがでない限り両膝をついて礼拝するのが決まりだ。ジルは近くで教皇の顔を見たことがなかった。
司教の法衣をまとった教皇が書庫を出るまで、青い顔をしたジルはその場から動けなかった。




