78 書庫と老人
三ノ月一日、ジルは再び落第生となり、エディは騎士宿舎に居を移した。
今回の神官試験で出された教養はダンスだった。ステップの一つでも外せば良かったのだけれど、楽しくてジルは最後まで踊りきってしまった。
ちなみに、教会領にいる神官見習いは女性の方が多い。ダンスが得意なジルは、数合わせのために男性パートも踊ることができた。
教養の減点は期待できないので、次に苦手な数学や生界史を適度に間違えてやり過ごした。
今年は教養の講師に嘆かれなかったけれど、とても気を遣われてしまった。落ち込む必要はない、貴女には良いところも沢山あるなど励まされ、ジルは居たたまれなかった。
「……止まないな」
窓の外では、何年振りかも思い出せない雨が降っていた。
朝は晴れていたのに、お昼頃から徐々に暗くなり、今は幕を引いたように白く煙っている。窓の少ない書庫は薄暗く、いつもは気にならない古紙のにおいが鼻についた。
早く寄宿舎に帰れば良かったのだけれど、自室には誰もいない。午後講義を終えたジルは、備え付けの魔石ランプを長椅子に置き、ぐずぐずと居座っていた。
朝、目が覚めておはようと声をかける相手がいない。まだたった一日だけれど、それはとても淋しかった。
――でも、逢えないわけじゃない。
エディもジルも生きている。聖女の儀式を乗り越えなければ、それも潰えてしまうのだ。
二日後には新しい聖女が降誕し、その三日後には教会領に入る。活を入れるため、ジルは両頬を叩いた。雨音に交ざり、パシンと音が弾ける。
「元気でよろしい」
「!」
書棚の陰から白髪の老人が現れた。いつから書庫に居たのだろうか。自分一人しかいないと思っていたジルは、なんとか動揺を抑え込んだ。
久方振りの雨に聴覚を乱されて、扉の開閉音に気が付かなかったのかもしれない。老人は深縹色の裾を引いて近づいて来た。目尻に深い皺を刻んだ姿は好々爺といった風情だ。
――深縹は……司教様?
深縹色の法衣は司教補も同じだけれど、歳を重ねている様子からジルは司教と判断した。長椅子から立ち上がり、老人に行礼する。なにか調べものだろうか。
「座っても宜しいかな? 歳をとるとあちこち痛んでの」
「失礼いたしました!」
座面に置いていた魔石ランプを急いで掴み上げ、ジルともども端に除けた。老人はふうと長く息をはき、ゆっくりと腰掛ける。背中を軽く伸ばしたあと、ジルに座るよう促してきた。
「お嬢さんは、二回目の神官試験に落っこちた子じゃな」
「えっ、は、はい……そうです」
まさか講師でもない司教にまで、合否を把握されているとは思わなかった。ジルは自らすすんで不合格になった。バツの悪さから自然と顔が俯く。
「聖の魔力を宿しながら他者回復もできぬと聞く」
「…………」
「落ち込んどるんじゃないかと思ったが、杞憂じゃったかの」
自分には聖魔法の才能が無いのだと諦めている。けれど、教会関係者に改めて言われると、役立たずだと暗に宣告されたようで少し辛かった。
それでもこの司教は、ジルを気遣って声をかけてくれたのにはかわりない。ジルは膝を揃え頭を下げた。
「お心遣い痛み入ります」
「なに、お嬢さんをいじめようとは思っておらん」
続けて司教は、文様が浮かぶ方の手を出しなさいとジルに言ってきた。差し出す意味が分からなかったけれど、高位職の命令を明確な理由もなく拒否できない。それに老人のやわらかな丹色の瞳には、深い慈悲が滲んでいた。
「若い娘の手はええのう」
「っ」
「冗談じゃ」
礼儀など構わずジルは手を瞬時に引っ込めた。そんな様子をみて老人は飄々と笑っている。揶揄われているのだろうか。ならば長居しても良いことはなさそうだ。
「申し訳ございません。そろそろ……」
「お嬢さんと同じ能力を持った御方がいたのを知っておるかな?」
「えっ……司教様!?」
ジルは二つの驚きに声を上げた。ひとつ目は、自己回復を有した者がいたことに。
そしてふたつ目は、老人が目の前で自身の腕にナイフを走らせたからだ。
ジルはポケットからハンカチーフを取り出し、手早く司教の腕に結びつける。裂けた袖と同様、布はすぐに紅く染まった。
「すぐに聖神官様を」
「それならここにおるじゃろう」
「っ、私には治せません……!」
締めつけが足りないのだろう。腕の出血は止まらず、紅い雫が落ち始めた。だというのに老人はその場から動かず、ケガを治せと言う。
先ほど老人はジルに確認してきたではないか、他者回復はできないと。
「道を作ってやればよい」
歯噛みしていたジルの指先に、紅い痛みが刺さった。




