73 介抱と失態
ぽん、ぽん、とゆっくり背中を叩かれている。
「吐き出す息は長く、呼吸だけを意識しろ」
ジルはその振動に合わせて、呼吸を繰り返す。
「そうだ、ゆっくり。大丈夫だ」
大きな手に背中をさすられた。ゴツゴツと剣ダコで厚くなった手のひらは、義父のものだ。
大きな体に寄りかかり、呼吸を繰り返す。あたたかな体温と、とくとくと脈打つ心音が、心地良い。手足の痺れが、消えていく。苦しかった呼吸が、楽になる。
「手慣れてますね」
「同じ発作をするのがいたからな」
「!!」
息苦しさから解放され血の巡りが良くなった脳は、状況を正しく認識する。
座り抱え込まれた体勢から逃れようと、ジルは両手を突き出した。けれど鍛えられた体はびくともせず、反対にジルが後方へ倒れそうになる。
「それだけ力が入るなら問題ないな」
大きな手に腰を支えられ、床との衝突は免れた。仰け反り見上げた先には、朱殷色の瞳があった。介抱してくれたのはウォーガンではなく、警戒対象だった。動揺でジルの息が止まる。
「呼吸を整えろ」
低く落ち着いた声でラシードが言う。それは、義父に習った言葉と同じだった。
ジルは平静を保つため、ゆっくり深く呼吸する。併せて、警戒対象の弱点も思い出した。ジルなど歯牙にもかけないほど強く、動揺とは無縁にみえる瞳で見下ろしてくるラシードは。
――キノコが嫌い。
体は大きいのに子供のようだ。そうだ御守にキノコを携帯しよう。なにかあったら口に投げ込もう。そんな思考も浮かび、ジルの呼吸は軽くなった。その変化を感じ取ったのだろう。腰に回っていた手は離れ、ジルはラシードから解放された。
「痛むところは無いですか?」
それまで様子を窺っていた騎士が、ジルに声をかけてきた。本日の夜番であるという騎士は、ジルが団長の名前を呼び倒れたときは、血の気が引いたと話した。
救護室へ運ぼうと近づいたところ、バクリー副隊長が応急処置を始めたので見守っていたそうだ。
――まだお礼を言ってなかった。
そのことに気が付いたジルは立ち上がり頭を下げる。
「お見苦しいところを見せてしまい、申し訳ございません。お助けいただき、ありがとうございました」
「顔を上げてください。騎士として当然のことをしただけです」
介抱したラシードではなく夜番が答えた。ラシードは、自分の仕事は終わったとばかりにジルから距離をとり、口を結んでいる。
――そういえば、どうしてここにいるんだろう。
ラシードは、第五神殿騎士団に戻ったとデリックが言っていた。第五は南方で、ここは北方騎士棟だ。ウォーガンに会いに来たのだろうか。しかし執務室前で騒いでいるにも関わらず、部屋の主が現れる気配はない。もしかして、とジルは夜番を見る。
「騎士様、ハワード団長は執務室にいらっしゃいますか?」
「本日は評議会に出席しており、まだ」
「こんな時間にどうした」
帰ってきていないと夜番が言い終える前に、廊下の先から義父の声が聞こえた。求めていた声を耳にして足が駆けだそうとしたけれど、ジルはどうにか踏み止まった。
ここにはウォーガンだけでなく、夜番の騎士やラシードがいるのだ。それでなくとも先ほどの失態がある。義父に要らぬ醜聞が立たないよう、ジルは平静であろうと努めた。
「夜分に、申し訳ございません。急ぎお耳に入れたいことが」
それだけで義父は察してくれた。
先に入っているようジルは促された。扉を挟んだ向こう側で、ウォーガンとラシードは何かを話している。二人の声は聞こえるけれど、くぐもっており内容までは分からない。会話はすぐに終わったようで、執務室の扉が再び開かれた。
「二人は下がらせた。何があった、ジル」
手にした書類の整理もそこそこに、ウォーガンはソファに座った。夜番から聞いたのだろう。焦茶色の瞳はジルの容態を案じていた。
対面に着座していたジルは心を落ち着かせるため、息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「風の大神官様の様子が、変なんです」




