72 動揺と鼓動
――どうしよう。風の大神官様が変だ。
聖女と間違えていないかと確認すると、即否定された。それどころか、とても悲しそうな顔をされてしまった。見上げてくる緑葉の瞳は萎れているようで胸が痛んだけれど、看過できないものはできない。
「わ、我が君……などと呼ぶのは、おやめください。教会からお叱りを受けてしまいます」
「心うちで呼ぶことはお許しください」
「手を、離していただけますか?」
ルーファスはすんなりと両手を離してくれた。交換条件を出されたらどうしようかと心配していたジルは、ほっと息をついた。
直後、呼吸が止まった。風の大神官がジルの足元に跪いているのだ。
夜の帳が下りた今、中庭に人影はない。近くには魔石ランプの常夜灯もないため、遠くから視認されることもないだろう。東屋には今、ジルとルーファスの二人しかいない。
けれどそれらは、ジルの動揺を鎮めてはくれなかった。
「リンデン様なにを」
ルーファスの手がジルの靴に伸びる。ふわふわとした飴色の頭はそのまま下がり、靴先に落ちた。ジルは止めることも出来ず、ただ茫然と風の大神官を見下ろしていた。
「僕はずっと、貴女の傍にいます」
足元から顔を上げたルーファスの瞳には、万緑が広がっていた。匂い立つような緑に眩暈がする。風の大神官はジルを見て、信じて貰えませんか、と眉尻を下げて困ったように笑うのだ。
そこには知っているのに、知らない人がいた。
「っ、失礼いたします……!」
だからジルは、逃げ出した。
ゲームの内容が変わってしまったのではないか。このままだとエディの死亡は回避できないかもしれない。それだけが、心配だった。
◇
「エディっ!!」
中庭からどこを通って帰ったのか覚えていない。寄宿舎の自室に戻るなりジルは弟の名前を呼んだ。
「姉さんおかえ、わっ……!」
存在を確かめるように、消えてしまわないようにジルはエディにしがみ付いた。
両腕を背中に回して、強く強く抱き締める。自分の鼓動が耳についてエディの音が聴こえない。それでも触れ合った先からは、ぬくもりを感じた。じわりと移ってくる体温に、浅かったジルの呼吸が落ち着いていく。
「遅かったけど、何かあったの?」
頭の横で静かな声が聞こえた。弟にゲームのことは話せない。ジルは息を吐いて、腕の力を緩める。
「大神官総会に呼ばれて疲れたから、心の補充」
「総会に、呼ばれた?」
「うん。それでウォーガン様に相談したいことがあるから、今から行ってくる」
エディを離したジルは、クローゼットから稽古のときに着ている外套を取りだして羽織った。開けたままになっていた扉の前に立ち振り返る。
「ご飯は先に食べてて。鍛練も忘れちゃダメだよ」
心配させないよう笑んで声をかけたジルは、弟の返事を待たずに自室の扉を閉めた。
エディには疲れたと先に言っておいたから、元気のない笑顔でも不自然ではないはずだ。心配させてしまっただろうけれど、今のジルにはこれが限界だった。不安で固まりそうになる手足を叱咤する。
――はやく早くはやく戻さなくちゃ。
焦りから足がもつれそうになる。転んでいる時間が惜しいと踏ん張る。
ウォーガンのいる北方騎士棟はもう目の前だ。第二神殿騎士団の演習場を過ぎて騎士棟の扉をくぐる。剣の稽古で訪れているため、騎士に止められることはない。
重い足を上げて階段を駆け上がる。ずっと走っているからだろうか。空気が薄く感じられ、手足が痺れてきた。廊下を曲がった先に、ウォーガンの執務室がある。壁の向こうに、大剣が、見えた。
「ウォーガン様……!!」
ジルは叫んでいた。かすれ上擦った声は、悲鳴に似ていたかもしれない。息が苦しい。呼吸ができない。前を行く騎士服を、掴もうとしてジルの視界は、暗くなった。




