70 眉間と優先順位
ジルの上から身を引き隣に座り直しても、クレイグの眉間には皺が刻まれたままだった。
むしろ出遭ってこのかた、金色の眉は寄っていない時のほうが珍しい。そのことに今更ながら気付いたジルは、長椅子から起き上がりクレイグの正面にしゃがんだ。
「癖になってしまいますよ」
チョコレートが付いていなかった方の手をクレイグの眉間に添え、人差し指と中指でぐーっと開いて皺を伸ばす。指を離してみると、またすぐに眉間が寄った。ジルはもう一度皺を伸ばしてみる。そんな行動を黙って見ていたクレイグの視線が、不意に下へ落ちた。
「ごめん」
「?」
「皆の前でジルに謝らせた」
議場でファジュルに言われたことを、クレイグは気にしていたのだ。眉間の皺はまだ消えない。クレイグが気に病まないよう、ジルは明るい声を意識して口を開く。
「私に非があったんです。謝る機会をいただけて助かりました」
「ケガさせた」
「ほっぺたはほら、何ともないです」
ジルは頬がよく見えるよう、髪を耳にかけて横を向く。頬にぺたりと、クレイグの手が当てられた。本当に腫れていないか確かめているのだろう。
「水の大神官が冷やしてくれたの?」
「えっと……はい」
氷のうを出してくれたのは救護員だけれど、救護室に連れて行ったのはナリトだ。冷やしてくれたと言えなくもない。だからジルは、クレイグの言葉を肯定した。眉間にはまだ皺がある。
「だから機嫌が良かったんだ」
「いえ、それは」
お菓子を貰った。ファジュルと仲直りできた。なにより、弟と姉が増えたような幸福感を得たからだ。別にナリトが冷やしたからではない。そうと言いかけて、ジルははたと気が付いた。
「ミューア大神官様、もしかして拗ねてます?」
ジルの頬に触れていた手がぴくりと動き、消えた。
その手はいま握り拳となって、口元を隠している。橙色の瞳を逸らしたクレイグの顔には、朱が差していた。
――なんだろう、この可愛い生き物。
目の前にいるのがエディなら、ジルは思いきり抱き締めていた。クレイグは弟のようだけれど他人だ。膝枕がダメなら、抱き締めるのもダメだろう。
「手当をしようと、思ってくださったんですね」
隣に座り直して、ジルはクレイグの頭を撫でた。陽だまりのような金糸の髪は、さらさらと心地良い。クレイグの顔は背けられているため、眉間の皺は見えない。
「次はオレが護るから」
つんと拗ねた物言いだった。けれど声音には、確固たる意思が感じられた。クレイグは自分を心配してくれたのだ。ジルは嬉しくて頭を撫で続ける。
「ありがとうございます。でも、」
金色の頭が動いた。横目で窺っているのだろう。その視線に向けて、ジルは笑顔を返す。
「大神官様の責務は、聖女様を支えることです。優先順位を間違えてはダメですよ」
「っ……分かってる!」
声を荒げて立ち上がったクレイグにジルは驚いた。昨日から言い続けているから、きっと鬱陶しく思われたのだ。土の大神官は口をへの字に曲げて顔を顰めている。眉間の皺は、これまでで一番深い。
――嫌われちゃったかな。
クレイグは大神官で、ジルは神官見習いだ。その地位は大きく開いている。聖典の読み方を少し教えただけで、思い上がっていた。ジルは立ち上がり、深く腰を折る。
「僭越でございました。申し訳ございません」
「帰る」
「道中のご無事と、御身のご健勝をお祈り申し上げます」
土の大神官が書庫を出るまで、ジルは頭を下げ続けていた。だからその時クレイグが、どんな顔をしていたのか、分からなかった。
◇
軽い足取りで入った書庫だったけれど、出るときの足は重たかった。
廊下に差し込む陽が、弱くなり始めている。あれから書物を読む気にはなれず、ジルは寄宿舎に向かっていた。
「ジル嬢?」
西棟を出たところで、ルーファスに声をかけられた。今日は大神官総会があったから、教会領にいてもおかしくはないのだけれど。
――攻略対象に一日二回ずつ遭うのは、どうなんだろう。
ナリトとクレイグはジルのほうから訪問したため、遭うという感覚は適切ではない。けれど、朝から色々と消耗していたジルは疲れていた。それが顔にも出ていたのだろう。
「なにかありましたか?」
ルーファスに気遣わし気な眼差しを向けられ、ジルは眉尻を下げてしまった。




