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傾界の聖女  作者: たま露
【教会領 編】
71/318

70 眉間と優先順位

 ジルの上から身を引き隣に座り直しても、クレイグの眉間には皺が刻まれたままだった。


 むしろ出遭ってこのかた、金色の眉は寄っていない時のほうが珍しい。そのことに今更ながら気付いたジルは、長椅子から起き上がりクレイグの正面にしゃがんだ。


「癖になってしまいますよ」


 チョコレートが付いていなかった方の手をクレイグの眉間に添え、人差し指と中指でぐーっと開いて皺を伸ばす。指を離してみると、またすぐに眉間が寄った。ジルはもう一度皺を伸ばしてみる。そんな行動を黙って見ていたクレイグの視線が、不意に下へ落ちた。


「ごめん」

「?」

「皆の前でジルに謝らせた」


 議場でファジュルに言われたことを、クレイグは気にしていたのだ。眉間の皺はまだ消えない。クレイグが気に病まないよう、ジルは明るい声を意識して口を開く。


「私に非があったんです。謝る機会をいただけて助かりました」

「ケガさせた」

「ほっぺたはほら、何ともないです」


 ジルは頬がよく見えるよう、髪を耳にかけて横を向く。頬にぺたりと、クレイグの手が当てられた。本当に腫れていないか確かめているのだろう。


「水の大神官が冷やしてくれたの?」

「えっと……はい」


 氷のうを出してくれたのは救護員だけれど、救護室に連れて行ったのはナリトだ。冷やしてくれたと言えなくもない。だからジルは、クレイグの言葉を肯定した。眉間にはまだ皺がある。


「だから機嫌が良かったんだ」

「いえ、それは」


 お菓子を貰った。ファジュルと仲直りできた。なにより、弟と姉が増えたような幸福感を得たからだ。別にナリトが冷やしたからではない。そうと言いかけて、ジルははたと気が付いた。


「ミューア大神官様、もしかして拗ねてます?」


 ジルの頬に触れていた手がぴくりと動き、消えた。


 その手はいま握り拳となって、口元を隠している。橙色の瞳を逸らしたクレイグの顔には、朱が差していた。


 ――なんだろう、この可愛い生き物。


 目の前にいるのがエディなら、ジルは思いきり抱き締めていた。クレイグは弟のようだけれど他人だ。膝枕がダメなら、抱き締めるのもダメだろう。


「手当をしようと、思ってくださったんですね」


 隣に座り直して、ジルはクレイグの頭を撫でた。陽だまりのような金糸の髪は、さらさらと心地良い。クレイグの顔は背けられているため、眉間の皺は見えない。


「次はオレが護るから」


 つんと拗ねた物言いだった。けれど声音には、確固たる意思が感じられた。クレイグは自分を心配してくれたのだ。ジルは嬉しくて頭を撫で続ける。


「ありがとうございます。でも、」


 金色の頭が動いた。横目で窺っているのだろう。その視線に向けて、ジルは笑顔を返す。


「大神官様の責務は、聖女様を支えることです。優先順位を間違えてはダメですよ」

「っ……分かってる!」


 声を荒げて立ち上がったクレイグにジルは驚いた。昨日から言い続けているから、きっと鬱陶しく思われたのだ。土の大神官は口をへの字に曲げて顔を顰めている。眉間の皺は、これまでで一番深い。


 ――嫌われちゃったかな。


 クレイグは大神官で、ジルは神官見習いだ。その地位は大きく開いている。聖典の読み方を少し教えただけで、思い上がっていた。ジルは立ち上がり、深く腰を折る。


「僭越でございました。申し訳ございません」

「帰る」

「道中のご無事と、御身のご健勝をお祈り申し上げます」


 土の大神官が書庫を出るまで、ジルは頭を下げ続けていた。だからその時クレイグが、どんな顔をしていたのか、分からなかった。


 ◇


 軽い足取りで入った書庫だったけれど、出るときの足は重たかった。


 廊下に差し込む陽が、弱くなり始めている。あれから書物を読む気にはなれず、ジルは寄宿舎に向かっていた。


「ジル嬢?」


 西棟を出たところで、ルーファスに声をかけられた。今日は大神官総会があったから、教会領にいてもおかしくはないのだけれど。


 ――攻略対象に一日二回ずつ遭うのは、どうなんだろう。


 ナリトとクレイグはジルのほうから訪問したため、遭うという感覚は適切ではない。けれど、朝から色々と消耗していたジルは疲れていた。それが顔にも出ていたのだろう。


「なにかありましたか?」


 ルーファスに気遣わし気な眼差しを向けられ、ジルは眉尻を下げてしまった。

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