69 上機嫌と不機嫌
ナリトはチョコレートを一粒食べただけで、残りすべてをジルにくれた。お返しをしたくて訪問したのに、また菓子をいただいてしまった。
結局ジルは、タルブデレク大公を褒められなかった。けれど菓子の入った油紙袋を受け取る際、ジルはユウリからお礼を告げられていた。
――役には立てた、のかな。
窓から見える空は青く、陽は傾いているけれどまだ高い。いつもの時間には早いけれど、午後講義が無いことを知っている少年は待っているかもしれない。ジルは西棟へ足を向けた。
「やっとみつけたよ、ジル」
聞き覚えのある、かすれ気味の声に名前を呼ばれた。ジルは通り過ぎた渡り廊下を振り返る。ヒールの踵をコツコツと鳴らしファジュルが近づいて来た。体の動きに合わせて、豊かな亜麻色の髪と胸元が揺れている。
「寄宿舎に行ったらアンタは居ないって言われるし」
「申し訳ございません。ご足労をお掛けいたしました」
「謝らせたくて探してたんじゃないんだ」
ファジュルは体を横に向け、苛立ちを取りのぞくように肩にかかった髪を払った。バツが悪そうに腕を組み、視線だけでジルを見ている。
「ぶって悪かったね」
「えっ、いえ……私のほうこそ、数々のご無礼を失礼いたしました!」
ファジュルから謝られるとは思っていなかったジルは驚いた。自分が暴言を吐いた自覚はある。ジルは深々と腰を折り謝罪した。
「アタシの情報は高いよ」
ジルの顔に褐色の手が伸びてきた。こうして顎を上げられるのは何度目だろうか。紅玉の瞳は嫣然と細められ、艶やかな唇は弧を描いている。
「でも妹にならタダでくれてやろう。何かあったら頼っておいで」
出立する前に会えて良かったとジルの頭を撫で、ファジュルは颯爽と立ち去った。ゆらゆらと揺れる亜麻色の髪が見えなくなるまで、ジルはその場に立っていた。遅れてふわりと、心が浮き立つ。
――お姉ちゃんもできちゃった。
弟と姉、一度に家族が二人も増えた気がして、ジルは嬉しくなった。そのまま軽い足取りで、二人目の弟がいるかもしれない書庫へ向かう。
上機嫌で扉を開けいつもの長椅子に行くと、人形のように愛らしい少年が座っていた。とびきりの不機嫌顔で。
「遅い」
「いつもの時間より早いですよ?」
「どこに居たの」
「水の大神官様のところですけれど」
「なんで」
「お礼を伝えに」
ジルは今、とても機嫌が良かった。それに、美味しいものは分け合って食べると、もっと美味しくなるのだ。ジルは袋のなかから菓子を一粒摘まみ出す。
「火の大神官様とケンカしなかったご褒美です」
お一つどうぞ、と笑顔でクレイグにチョコレートを差し出した。初めて見る食べ物だからだろうか。クレイグは金色の眉を寄せて菓子を睨みつけている。それからふんと鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまった。
「甘いものは苦手ですか?」
「ケンカしたジルに罰はないのか」
「え?」
この体勢は本日二度目だ。
ただしこちらの長椅子は簡素な作りをしているので、少々背中が痛い。強く打ちつけていたら、頭にはコブができていただろう。
摘まんでいたチョコレートは咄嗟に握り込んだため、落とさずにすんだ。眼前にあるクレイグの顔を見上げれば、長い前髪のすき間から焦茶色の瞳が覗いていた。深みのある色合いにジルは微笑む。
「左目、このお菓子みたいですね。……ぁ」
握り込まれたチョコレートは手の中で温められ、少し溶けていた。何か拭うものはあっただろうか。ジルが思案しているとクレイグにその手を掴まれた。
「ジルは水の大神官が好きなの?」
「好嫌などと言える立場では……あの、ミューア大神官様?!」
少し溶けたチョコレートは、クレイグに食べられてしまった。そこまではジルにも理解できた。けれどなぜ、手についたものまで食べようとしているのか。
チョコレートが気に入ったのだろうか。確かにこの菓子は美味しい。
「お菓子は、まだ残ってっふふ、……新しい、のを」
手のひらが擽ったくて、ジルの言葉は途切れ途切れになってしまった。クレイグの言っていた罰とはこれのことだろうか。丁寧に拭われたところで、ジルは擽りの刑から解放された。
「……口の中が甘ったるい」
「やっぱり苦手なんじゃないですか」
無理をして食べなくてもいいのにと、ジルは呆れ顔で上を見た。嫌いなものを食べて気分が悪いのだろう。クレイグはむっとした顔で見下ろしてきた。




