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傾界の聖女  作者: たま露
【教会領 編】
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68 名前と三人目

 大神官総会の議場で、ジルはファジュルを名前で呼ばないよう注意していた。呼び方を揃えるために、クレイグに対しても役職名で呼んでいたというのに。


「これからはナリトと。火の大神官のことは名で呼んでいたよね」


 感情が告げるまま、ジルはファジュルお姉ちゃんと呼んでしまった。


 以前から名前で呼んで欲しいと希望していたナリトが、聞き逃すはずが無い。ジルはいよいよもって観念した。揃えた膝を少し隣に向け、座ったまま軽く頭を下げる。


「かしこまりました。ナリト大神官様」

「やっと呼んでくれたね。嬉しいよ」


 ジルの頭にナリトの手が添えられ、何かやわらかいものが触れた。それは一瞬で、すぐに手も離れた。頭についていたゴミでも掃ってくれたのだろうか。


 ――それはそれで恥ずかしいけれど。


 頭を上げたジルの隣では、ナリトが微笑んでいた。青い水底の瞳は、陽が差し込んだような煌めきを湛えている。


 ひとつ、喜ぶものを返せたようだ。残るは助言の、とジルは視線をナリトの目元に移す。


 側付きが言ったことは本当だったようだ。タルブデレク大公の目元には、薄っすらと隈ができていた。ナリトの様子はこれまでと変わりないけれど、本当はとても疲れているのかもしれない。


「カライト様から、政務でお忙しい毎日だと伺いました」

「魔物が増えているからね」

「眠っていらっしゃいますか?」


 褒めるはずだったのに、一度気が付いてしまえばナリトの体調が気になった。


 タルブデレク大公の双肩には、領民の命が乗っている。民を庇護するのは当然の行いだけれど、それは領主が壮健であってこそだ。ジルは手を伸ばし、指先でそっと目元の隈を撫でた。


「賢明な領主様が倒れてしまっては、領民の皆様が悲しみます。御身をお厭いください、ナリト大神官様」


 つい触れてしまい、驚かせてしまったらしい。ナリトは青い瞳を丸くしていた。無言で瞬きもなく凝視されているものだから、ジルは段々と不安になってきた。


 ――勝手に触れるなんて、これこそ不敬だ……。


 ジルは謝ろうとソファから立ち上がった。それが合図になったのだろうか。


 一瞬の出来事だった。両足が浮いたと思ったら、ジルはソファに戻っていた。ただし背後にあるのは背もたれではなく、座面だ。


 ナリトに膝裏を掬われたジルは、横抱きのままソファに下ろされていた。上質なソファは肘掛けにまで丁寧な仕事が施されており、乗せられた頭に痛みはない。とはいえ、ナリトを見上げるこの体勢は、歓迎できるものではなかった。


「神官見習いの身で、出過ぎたことを申し上げました」


 申し訳なさからジルの眉は八の字を描いた。今、ナリトの手はジルの後頭部にある。少し位置をずらせば、容易に首を絞めることができた。横になった体勢も、覆い被さっているナリトの方が優位だ。力勝負になったらジルは勝てないだろう。


 眼前にあるナリトの顔は僅かだけれど上気している。菓子のお礼をしたかったのに、怒らせてしまったのだと申し訳なくなった。


 継ぐ言葉が見当たらず、ジルは目を伏せる。すると、部屋の隅から咳払いが聞こえてきた。そういえばここにはユウリも居たのだ。もしかしたら加勢してくれるかもしれない。でもユウリはナリトの側付きだから、とジルが戦力差を考えていると。


「……すまない。怖がらせてしまった」


 ナリトから深いため息が吐き出された。ジルは体を引き起こされ、正しい姿勢に戻された。そっと隣を窺えば、片手で顔を覆ったタルブデレク大公がいた。肩を落とした姿は疲れており、落ち込んでいるようにも見える。


「甘い香りに自制が飛んでしまったようだ」


 甘い香り、とジルは首を傾げる。ナリトは甘い物を控えているのだろうか。ならばここにある菓子の香りは、さぞ辛いことだろう。しかし、抑えが効かなくなるまで控えているというのは問題だ。


「我慢のし過ぎは、体に毒ですよ」


 ジルに饗されたものだけれど、元々はナリトが用意した菓子だ。チョコレートが盛られた器を、ジルは隣に差し出した。しかしナリトは菓子を眺めるばかりで、食べる様子はない。


 ――迷ってるのかな。


 遠慮する必要はないのにと、ジルは器から一粒摘まみとった。どうぞと更に近づける。すると、ナリトは菓子を受け取らず、ただ口を開いた。


 ――また弟が増えた。


 エディにするように、ジルは笑いながら口の中へチョコレートを置いた。


 三人目の弟はずいぶんと立場が高く、年齢も上だ。けれど甘い菓子に目元を緩めている姿は、ジルには可愛らしく映った。

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