67 正装と胃痛
貴賓室に入って来たナリトは、大神官の正装をまとっていた。流れるように伸びた裾は足元を覆い隠し、大きな袖口はゆったりと垂れ下がっている。胡粉色の生地をふんだんに使用した法衣は眩く、とても優美だ。
「ジル嬢が待っていると聴いて、急いで戻って来たんだ」
ナリトは部屋に入るなり、ジルの首付近に手を伸ばしてきた。一瞬身構えたけれど、頬を覗き込まれただけだった。腫れていないのが確認できたのだろう。患部に触れないよう、ジルの耳下に添えられていた手が離れた。
息をついたナリトから、ジルはソファに座るよう促された。ユウリに何事かを告げたあと、ナリトも腰を下ろす。ジルの隣に、正装のままで。
「お召し物が汚れてしまいます」
白い衣装は小さな染みでもよく目立つ。ジルは法衣に触れないよう、ナリトと入れ替わるようにして立ち上がった。
水の大神官を見下ろす格好になってしまった為、ソファから離れようと身を翻す。けれどジルは、そこから移動できなかった。ナリトに手を掴まれている。
「気になるなら着替えよう。君はそこにいるといい」
「でしたらお手伝いいたします……!」
ここは水の大神官にあてられた貴賓室だ。つまり、着替えるならこの部屋を使用するしかない。
ここにいろと高位職に命じられた以上、ジルはこの部屋から退出できない。落ち着かない部屋でじっと動かず、更に着替えを待つのは居心地が悪いことこの上ない。ジルは少しでも気を紛らわせようと、手伝いを申し出た。
予想外だったのだろう、ナリトは軽く眉を上げている。けれどすぐに双眸を細めた。水の大神官は流麗な裾を慣れた足取りで捌き、クローゼットの前に立つとジルに手招きをした。
「羽織を下ろして貰えるかな」
「承知いたしました」
ジルは自分の手に汚れが無いことを確認して、背を向けたナリトの後ろ衿に手をかけた。法衣の生地を傷めないよう慎重に両袖を下げ、皺に気を付けながら裾をたくし上げる。身長の低いジルに合わせて、ナリトは腰を落としてくれていた。
――あれ、これって。
クローゼットに羽織を掛けつつジルが心配していると、ユウリが部屋に戻ってきた。扉を開けて立ち止まり、室内を確認している。ナリトと視線を交わしたユウリは、運んできた茶器を素早くサイドテーブルに置いた。
「ハワード神官見習い様、申し訳ございませんがしばしご退席願えますか?」
着替えの邪魔にしかなっていないことに気が付いたジルは、ほっと息を吐いた。二人に一礼したあと、ジルは貴賓室の外に出る。廊下で待っていると、いくらも経たないうちに呼び戻された。
ソファに座ったナリトの恰好は、動きやすそうな仕立ての良い服になっていた。再入室したジルを見て、空いた隣をぽんぽんと叩いている。そこに座れということだろう。側付きは何も言わず、静かに紅茶を淹れている。横並びだと話しづらいのにと思いつつ、ジルは席に着いた。
「ご用向きはなにかな」
一人分あけていた距離を詰められた。傾いだ頭に合わせ、濡羽色の髪が流れ落ちている。ジルは距離間の調整を諦め、青い双眸を細めたナリトに一礼した。
「お菓子のお礼を。水の大神官様、ありがとうございました」
「わざわざそれを言いに?」
「直接お伝えしたくて。雪のように溶けてなくなるお菓子なんて、初めて頂きました」
「気に入ったのならお嬢様、こちらもどうぞ」
ちょうど紅茶を並べ終えたユウリが、ナリトに器を手渡した。
――息ぴったりだ。
ジルが聖女の従者となったとき、はたしてユウリと同じような動きができるだろうか。感銘の眼差しを先輩に向けていると、ナリトから器を差し出された。
とろりと甘い香りが、ジルの鼻腔をくすぐる。そこにはあの、茶色のお菓子が並べられていた。お嬢様などと呼ばれる身分ではないけれど、菓子の前では些末事だ。
「うちの菓子職人が新しく作ったものでね。まだ市場には出していないんだ」
「そ、そんなに貴重なものだったんですか!?」
目の前に出された菓子が金や宝石に見えてきた。それをぱくぱくと食べていた自分に胃痛を覚える。ジルが表情を硬くしていると、ナリトから笑いが零れた。
「これは試作品だから気にしなくていいよ」
この菓子はチョコレートと言うらしい。ガットア領で採れる果実の種子から作られており、種子の加工場が整えば、いずれ市井に広まるだろうと説明された。それはつまり、今はまだ希少品ということで。
「頂いてばかりで申し訳ないです。私に、お返しできることはないでしょうか?」
ユウリから、ナリトを褒めてあげて欲しいと助言を貰った。けれどそれだけでは返しきれないと感じたジルは、本人に尋ねていた。




