65 癇癪と自己満足
空気が弾けたような、肌を打つ音が鼓膜に刺さった。
波打つ亜麻色の髪がばさりと揺れている。ジルはファジュルから瞳を逸らさず、手に力を籠めた。
「言葉よりも先に手が出るのは、子供以下かもしれませんね」
「商売は舐められたら終わりなんだよ。――離しなっ!!」
頬に触れる前に、ジルは褐色の手首を掴み止めていた。ウォーガンの稽古で受ける石や剣の方が何倍も速い。ファジュルの平手打ちは、両目を閉じていても容易に避けられただろう。
追放した商人をよそに、ファジュルは癇癪を起している。その姿にジルは、母の影をみた。
父に捨てられた母は、きっと寂しかったのだ。だから構ってくれる人を、愛を注いでくれる人を探して、毎日彷徨っていた。満たされない心に、上手くいかない焦燥感。どうにもならない苛立ちを娘にぶつけた。子供のような人だったのだ。
あの日、義父に大丈夫だと言われていなければ、ジルは避けられなかった。振り上げられた手を目で追うので精一杯だっただろう。ファジュルは手を離せと紅玉の瞳を更に赤く染め上げて、ジルを睨め付けている。
「欲しがるだけでは、誰も返してくれませんよ」
「っ、知ったような口を」
振り上げられたもう片方の手も、ジルは悠々と防ぐ。ファジュルを批難する声や、ジルを止めようとする声は黙殺した。
互いに両手は塞がっている。ヒール靴を履いたファジュルの背は、手のひら一つ分ほどジルより高い。次にくるとしたら頭突き、あるいは足技だろうか。そんなことを頭の端に置きつつ、ジルは紅玉の瞳を見上げた。
「はい。私は何も知りません」
それでもジルは、母が好きだった。昔のように笑いかけて欲しかった。変わってゆく母に怯えて、ぶたれたくなくて、いい子でいようとしていた。
ジルはファジュルの両手を離した。直後、自由になった褐色の手が振り抜かれる。熱を帯びた頬の痛みに、遠くなり始めていた記憶が戻ってくる。母の気持ちなんて、考えたことがなかった。
――でも、あのころの自分とは違う。
これは母とファジュルを重ねた、ただの自己満足だ。それでも、昨日思ったことに偽りはない。
「だから、ファジュルお姉ちゃんのことを教えてくれませんか?」
ヒロインが現れるまでの話し相手になれたら。ジルは胸の痛みに眉尻を垂らし、ファジュルに笑いかけた。
◇
火の大神官が議場を退出したことで、大神官総会は閉幕となった。
ジルは今、氷のうを頬に当てていた。
頬の腫れは自己回復を使えばすぐに治る。とは言わず、問題ないとだけ返した。のだけれど、自分が召還したからだと言って、ジルはナリトに抱え上げられてしまった。歩けるので下ろして欲しいと伝えたけれど。
――恥ずかしかった……。
横抱きのまま救護室に連れて来られたため、救護員に大ケガをしていると勘違いさせてしまった。頬が少し腫れているのだとジルが伝えたとき、救護員はなんとも言えない表情をしていた。
今、救護室にナリトはいない。これから聖女との謁見があるため、支度に戻って行った。
聖女への新任挨拶は正装で行われるのだ。ゲームの一場面でもあったけれど、胡粉色の法衣をまとった攻略対象が並んだ様は眩く壮麗だった。
ちなみに聖女の衣装には純白が使用される。白い法衣は、聖女と大神官のみ着用が許されていた。貴族や庶民でも白一色の服は普段着用できず、婚礼時のみと定められている。
――私が白を着る日なんてくるのかな。
灰色の裾を眺めながら頬を冷やしていると、お腹がぐぅと鳴いた。救護室に掛った時計を見れば、短針は一の数字を指していた。
――お昼食べ損ねた。
今から教養の講義に参加できないだろうか。午後講義も免除となっているため、よしんば参加できても、お菓子はないかもしれないけれど。ジルが詮無いことを考えていると、救護員に声をかけられた。手に箱を持っている。
「ハワード神官見習いに渡して欲しいと頼まれたのですが……」
「どなたからでしょうか?」
「タルブデレク大公閣下からだと。いらっしゃったのはお付きの方でした」
「ありがとうございます。お受けいたします」
氷のうを横に置き、ジルは箱を受け取った。ここで開けても良いものだろうか。そう迷っていたジルの鼻先を、甘い香りがくすぐった。
「!」
美味しそうな匂いに再びお腹が鳴いた。ジルはお礼を告げつつ氷のうを救護員に返却し、いそいそと寄宿舎へ帰る。これから少し遅い昼食兼お茶会だ。
――水の大神官様は、お菓子をくれる良い人!




