60 相談と成長
紅玉の瞳が丸くなっている。そして、ぽかりと開いていた口が大きくなった。
「アハハハハハハ。いや、ごめん。拍子抜けしちまってね」
何を尋ねているのだろうと、ジルは頭を抱えたくなった。弟と入れ替わるのだから、体形はこのままでいい。けれどファジュルの見事な胸元が、目に入ってしまったのだ。
相談という名のどんな取引を持ちかけられるのか。そう気構えていたところ、本当の悩み相談だったので気が抜けたのだと、ファジュルから説明された。
今は自身の頬を指先でたたきながら、ジルの胸元に視線を落としている。紅玉の瞳はさらに下をなぞり、最後は顔へと戻ってきた。
「栄養不足。肉や魚をもっと食べな」
「分かりました」
ジルが思いつくまま口にした質問に、ファジュルは真面目に答えてくれた。
教会の食堂で提供される食事は、基本のパンとスープ。そして肉か魚を選ぶことができた。しかしジルはいつも、パンとスープしか食べていない。お昼にいたっては野菜を挟んだパンですませていた。困窮の記憶から、少食で過ごすのが癖になっていた。
――食べなかったのは正解だったんだ。
ファジュルの助言に関心しつつ、ジルは改めて自分の胸元を見た。なだらかな体形は、弟と入れ替わっても周囲に違和感を与えていなかった。教会領は気温が低いため、衣服の生地が厚めなのも助けているのだろう。
「あとはマッサージだね」
「え」
ファジュルの両手がジルの脇下に伸びてきた。腕を上げられ、左のくぼみを指圧される。痛みは感じなかったため、右のときも大人しくしていた。ファジュルの手が離れたので、マッサージは終わったと思い油断していた。
次いで褐色の手はジルの薄い胸に伸び、くるりと円を描くように動いた。
「え、あのっ」
「――ジル!」
驚いてジルは声を上げてしまった。その直後、面会室の扉が音を立てて開いた。隣り合うファジュルに体を向けていたジルからは、扉が見えない。
入室者の姿を確認する間もなく、背後から腕を回されソファから引っ張り上げられた。
「商談中だよ。誰の許しを得て入ってきた」
「土の大神官の権限でもって」
「あぁ、新任の。世話役の神官に礼儀は習わなかったのかい?」
「あんたの取引じゃ客に手を出すのが礼儀なんだ?」
ジルを挟んでファジュルとクレイグが会話をしていた。
正面にある紅玉の瞳は鮮やかに色づき、クレイグを悠然と見据えている。後ろに目を移せば、夕焼けの瞳は鋭く光り、眉は不機嫌に顰められていた。
悲鳴のような声を出してしまったから、心配させたのかもしれない。ジルは体に回された腕を外して、クレイグに向き直った。
「商談は本当です。私が驚いてしまっただけなんです」
人形のように整ったクレイグの目が眇められた。不機嫌の色が濃くなった気がして、ジルは安心させるように笑んでみせる。それからファジュルに向けてお辞儀した。
「ご教授いただき、ありがとうございました」
「マッサージは毎日やるといいよ」
「商談が終わったんなら行くぞ」
クレイグに腕を掴まれたジルは、半ば引き摺られるようにして面会室を出た。
足早に歩くクレイグを追う。腕を掴んでいた手は今、ジルの手を握っていた。西棟の階段に差しかかったとき、ジルはクレイグの手を引いて足を止める。
「ミューア大神官様、どちらへ行くのでしょうか?」
「書庫」
振り返ったクレイグは今もなお、むっとしていた。橙色の瞳は赤味が強く、と思ったところでジルは違和感に気が付いた。およそ七ヶ月前に話したとき、ジルの視線は少し下を向いていた。けれど今は。
――やっぱり男の子だなぁ。
ゲームのクレイグは、エディよりも背が高かった。弟の成長をみているようで嬉しい。それと同時に、新しい聖女がもうすぐ降誕するのだと感じて、ジルは身の引き締まる思いがした。
書庫に着いた二人は、定位置となっていた長椅子に向かう。ジルに座っているよう促したクレイグは、書棚で何かを探し始めた。手伝いの声をかけようとしたとき、一冊の書物が取り出された。
「それは」
「見習いが読んでた魔物の報告録だ」
土の大神官はジルの横に座り、カエルに似た魔物、マンナフローグのページを開いた。




