58 神官見習いと火の大神官
ジルは今、リシネロ大聖堂西棟の面会室にいた。
土の大神官と出遭って七ヶ月が過ぎようとしている。ウォーガンに叱られた翌日、ジルはクレイグに膝は貸せないと謝った。理由を説明すると、不機嫌ながらも了承してくれたことに、ジルはほっとした。
――次は臥ノ月に来るって言ってたけど。
今日は九ノ月三十日で、臥ノ月は明日だ。クレイグは新任の大神官だから、今年の大神官総会には全員出席が課せられている。目の前に座った人物も、顔合わせのために教会領に来たのだろう。
「呼び出して悪かったね」
「いえ、講義は知っている内容でしたので」
香り立つ紅茶のカップを皿に戻し、火の大神官は艶めいた唇を開いた。かすれ気味の声が、ジルの耳朶を震わせる。豊かに波打つ亜麻色の髪は腰まで伸びており、褐色の肌と互いの色を引き立てあっていた。紅玉の瞳は、熟れた果実のようだ。
――最後の一人にも遭っちゃった。……それにしても。
ジルの視線は、笑みを刷いた口元を飾る黒子から、つつと下がった。それからそっと、自身の胸元を窺う。比べるのも烏滸がましい程のたわわが、向かいの席にあった。ジルの視線に気付いた火の大神官から笑いが漏れる。
「重たいだけさ。ま、仕事で役に立つこともあるがね」
「失礼いたしました! それで、お話と言うのは」
手に余る程の大きな胸に釘付けとなっていたジルは、慌てて視線を上げた。問いかけに火の大神官は組んでいた足を解き、姿勢を正した。
「三年前、神官見習いの貴女に無礼を働いた商人がいただろう。あれはウチの商会に所属してたんだ」
ジルは小さく息を飲んだ。宿泊棟で奉仕をしていた時に、腕を掴んできた商人を指しているのだと分かった。
誰にも話さないようにと取引をしたのに、とジルの眉は寄りかけ、元の位置に戻った。ウォーガンに言われていたことを思い出したのだ。平静を保つため、深く呼吸をして整える。
「そのかたが、火の大神官様に報告されたのでしょうか?」
「別のヤツが見てたんだよ。それで締め上げた」
そういえばルーファスは、洗濯場は客室から見えると言っていた。その内の一室に、目撃者は泊まっていたのかもしれない。火の大神官の眉尻が申し訳なさそうに下がった。
「悪いことをしたね。怖かっただろう」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
「アイツは追放済みだから安心していいよ」
え、とジルが小さく声を漏らせば、火の大神官は当然だろうと片眉を上げた。肩に掛かっていた髪をはらい、冷ややかに笑う。
「商売は信用が肝なんだ。あまつさえ今回は教会領での醜態だ。温過ぎるくらいさ」
この程度の処分で済んだのは、ジルが教会に黙っていてくれたお陰だと感謝されてしまった。一件が明るみになっていたなら、自分の商会は縮小を余儀なくされていただろう、と。
「結果として取引は反故になった。アイツに代わって補償をしたい。何か望みはあるかい?」
「この件を黙っていて下さるだけで、私は十分です」
「欲が無いねぇ。なら、アタシの護衛にならないかい。女だてらに腕が立つって聞いてるよ」
火の大神官は、珍しいものを発掘した冒険家のような表情をしている。
神殿騎士団に女性はいない。市井であれば必要に迫られて、という場合もある。それでも、戦闘の心得がある女性は、圧倒的少数だ。
――あの商人さん、本当に全部話したんだ。
ジルは遠くなりかけた意識を呼吸で引き戻す。火の大神官は、ジルが神官試験に落ちていることも把握していた。神官など辞めて、商会長付きの護衛になれば報酬も弾むと勧誘された。
ジルの答えを待つことなく、火の大神官がソファから立ち上がる。
「周りは男共ばっかりでね。むさ苦しかったんだ」
起伏を描いた亜麻色の髪が、ジルの肩にまとわるように落ちてきた。
褐色のしなやかな指が顔に伸びてくる。ついと顎を掬い上げられたジルの視界に、赤い瞳が妖しく灯った。艶やかな唇が近づいてくる。
「護衛が嫌なら侍女はどうだい? 寵姫にしてもいい」
武器など振る必要はない。真綿でくるみ、宝飾をちりばめ、不自由のない暮らしをさせてやろう。かすれ気味の声は、ジルの耳元でそうささめいた。
――さすが攻略対象。主人公、女性だもんね。




