55 友達と気配
起き上がったクレイグは長椅子の座面に手をついて、ジルに顔を近づけてきた。
乱れた長い前髪から、焦茶色の瞳が覗いている。右の瞳では、琥珀に閉じ込められたような夕陽が、とろりと艶めいていた。
――友達になって欲しいってことかな?
弟との入れ替わりもあり、同僚との付き合いを避けていたジルに、親しい友人はいなかった。
眼前には、口の端を愉しそうに上げたクレイグの顔がある。息がかかるほどの距離になったとき、クレイグはぴたりと動きを止めた。
金色の眉が中央に寄る。クレイグはジルから離れ、どさりと隣に腰を落とした。自分の返事が遅かったから、怒らせてしまったのだ。そうジルが心配していると、書棚の陰からよく知った顔が現れた。
「姉さんどうしたの、今日は……」
「え、……あー!! そうだった、ありがとうエディ!」
ジルは弾かれたように立ち上がり、心配して呼びに来てくれた弟に抱きついた。自分と同じ高さにある頭を撫で、後ろを振り返る。
色の異なる双眸が丸くなっていた。人形のような顔立ちのクレイグは、驚いた顔も可愛らしい。けれども表情はすぐに戻り、怪訝な視線でジルに誰だと問うてきた。
「紹介が遅れました。弟のエディです。申し訳ございません、ミューア大神官様。これから義父と約束がありまして……本日はお暇させていただきます」
今日は剣の稽古をつけて貰う日だった。約束の時間はとうに過ぎている。
クレイグに素早く一礼したジルは身を翻した。エディの手を取り扉へ向かおうとしたとき、背後から呼び止められた。
「見習い、忘れ物」
「ふっ」
振り返りざま、ジルの視界は大きな布に覆われた。頭から引きずり降ろして確認してみれば、自分の羽織だった。そういえばクレイグに掛けたままだった。慌てており、すっかり忘れていた。ジルはクレイグにお礼を伝え、弟の手を握り直して書庫を後にした。
◇
寄宿舎に戻りエディの服に着替えたジルは、団長の執務室へ向かっていた。書庫から帰る道中、エディに何をしていたのか尋ねられたジルは、居眠りしてしまったと答えた。
――約束をすっぽかして寝てたんだから、ため息もつかれちゃうよね。
今日は十分程度クレイグに付き合って退出するつもりだった。そこにデリックが現れ、ジルの心積もりは上書きされてしまった。
二十分の遅刻だ。日没がせまり中庭を通る人影は無い、ジルは全力で駆けた。
「わっ! とっ」
第二神殿騎士団の演習場を通り抜け、ジルは北方騎士棟の扉をくぐった。直後、弾力のある何かにぶつかった。速度を出していたぶん衝撃も大きく、反動で後ろへ倒れそうになる。
「注意を怠るな」
ジルは大きな手に腕を引かれ、崩れた体勢を支えるように背中を抱え込まれた。
頭上から降ってきた低音には聞き覚えがあった。ぶつけた鼻先の痛みよりも、芯に響く声でジルの表情は硬くなる。両足で床を踏みしめれば、ラシードの手はジルから離れた。視線は上げず後方へ一歩距離をとり、頭を下げる。
「すみません。ありがとうございました」
「殺気は怯ませるのに有効だが、同時に対象を警戒させる」
「え?」
「俺を仕留めたいなら気配の制御も覚えるんだな」
思わぬ言葉に顔を上げれば、無表情な瞳の奥で熾火が静かに灯っていた。
ジルは護衛騎士を殺したいわけではない。けれど言葉で否定したところで、態度に現れているのなら弁明は無意味だ。ジルが黙っていると、ラシードは横を通り過ぎ騎士棟から出て行った。
――気配の制御。ウォーガン様に訊いてみよう。
魔物との戦いにも役立ちそうだ。ジルは深く息を吸い込み、再び歩き出す。執務室の扉を叩き名乗りを上げれば、入室を許可する声が返ってきた。
「申し訳ございませんでした!」
入室するや否やジルは勢いよく腰を折った。部屋の奥から物音がする。椅子から立ち上がり近づいて来たウォーガンの靴先が、ジルの視界に入った。
「言い訳は後で聴いてやろう」
「ぅ……はい」
ウォーガンの声はいつもと変わらない。怒られると思っていたジルは、その反応がかえって怖かった。立てかけていた訓練用の大剣を携えて、ウォーガンが部屋を出る。ジルはその大きな後姿に粛々とついて行った。




